礼拝メッセージ
●録音
●原稿
直近の録音メッセージです。過去分はこちらから。

【4/6】
ルカの福音書22章54節〜62節
受難週①「主イエスのまなざし」
イースター前の四十日間を受難節(レント)と呼びますけれども、イエスさまが私たちの罪そのものとして十字架で処分されたということを思い返す大切な期間です。イースターにはイエスさまの復活をお祝いしますが、その前に、私たちは十字架の死を思い返さなければなりません。イースター直前の一週間は特に受難週として、礼拝では聖餐式を行なってきました。今年は当日の場所が音の工房で飲食ができませんので、今日、イースターの二週間前ですが、本日の礼拝にて聖餐式を執り行います。
<ペテロのネガティブ・ケイパビリティ>
さて、本日の箇所はイエスさまが捕まった場面です。ゲツセマネの園でイエスさまを捕らえた人々は、そのまま大祭司の家に向かいました。ゲツセマネのあるオリーブ山から、エルサレムの町へ向けてまた斜面を上っていきます。この時に通っただろう階段が発掘されています。ペテロはその道を遠く離れてついていきました。彼は数時間前、最後の晩餐の席で「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と豪語したのです。22章33節ですね。またイエスさまが捕まった時、50節、大祭司のしもべに打ちかかったのは、ヨハネの福音書によればこれはペテロです(ヨハネ18:10)。しかし、イエスさまはペテロを制し、その傷を負ったしもべの耳を癒されました。もうペテロにできることは何もなかった。一隊の(つまり六百人の)兵士たち(ヨハネ18:3)、怒りと憎しみに満ちた祭司長たちを前に、彼は逃げました。しかし、ペテロは「遠く離れてついていった」のです。弟子としてしっかりお側にということはできなかったけれども、完全に離れてしまうのではなく、恐れて距離を取らざるをえないけれども、それでもついていったのでした。みじめですけれど。でもそれでもついていった。39節で、オリーブ山に向かうイエスさまに「従った」ということばと、54節の「ついて行った」、これらは同じ単語です。あの時は意気揚々と従っていったのです。何でもできるような気がした。怖いものは何もなかった。しかし今では距離をとって、こっそりついていく有様です。思い描いたような歩みはできない。それでもそうやってでも、ついて行ったんです。
私たちは、とかく完全なクリスチャンらしい歩みでなければならないという思いから、0点か100点か、どちらかしかないと思いがちです。でも、物事にはグラデーションがある。人生は試験ではないのですから、合格か不合格かでは決められないことがある。一般的にも言われていることですが、「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があります。消極的能力とか、否定的能力と訳されます。不確実なこと、あいまいなことを受け止める能力のことです。焦りや不安に駆られて、早急な判断をしてしまうのではなく、自分なりの答えが現れてくるのをじっと待つことができる力のことです。答えの出ない事態に耐える力と言うこともできます。現代社会というのは、効率がいいことや、白か黒かが分かりやすいことが重要視されますが、効率が悪くても、簡単に答えが出ないあいまいなことであっても、そのことを否定しないで、そのあいまいさをそのまま受け止めていける力はとても大切なのだと思います。
ペテロの姿はネガティブそのものです。しかし、ここにこそ、私たちの人生のリアルがあるじゃないですか。彼はみじめでもついて行った。それは「従った」ということなんです。100点じゃない自分はダメだとか、信仰が強くない自分はダメだとか、そのように思う必要はないんです。信仰が曖昧でも、そのぐちゃぐちゃしたままでイエスさまに何とかついていく。それでいいんです。
<イエスさまのまなざし>
とは言っても、ペテロのその歩み、イエスさまに従っていく道のりはいよいよ困難なものになりました。55節、大祭司の家の中庭で、人々が火をたいて温まり始めたので、ペテロもその中に紛れ込みます。勇気を振り絞って、ひっそりとそこにいます。建物の中から聞こえて来る罵声に耳を凝らしながら、イエスさまがどうしておられるかを必死に探ろうとしていました。
しかしそこで突然、声をかけられるのです。「この人も、イエスと一緒にいました。」隠れていたかったのに。身を明かさず、紛れ込んでいたかったのに。しかし座り続けていた中で突然声をかけられ、自分の立場が明かされてしまいました。57節、彼は慌てふためいて、「いや、私はその人を知らない。」と答えるのです。とっさの場面で、イエスさまとの関係を否定してしまいました。
信仰とはイエスさまとの関係です。イエスさまに知られ、イエスさまを知ることです。しかしペテロは身の危険を感じた時、それを否定しました。イエスさまを捕らえて亡き者としようという側の人たちに囲まれて、自分も捕らえられるのではないかと不安になり、とっさに出た言葉がそれだったのです。私たちにもよくわかるところです。
クリスチャンではない人が圧倒的多数を占めるこの社会にあって、イエス・キリストを救い主として信じていることで目立ってしまう。そのことで身に危険を感じてしまうメンタリティを私たちも持っています。マイノリティ・コンプレックスです。いや、そんなことは気にしない。人は人、私は私。私はイエスさまについていくのだとペテロはそう思っていたのです。しかし、突然の出来事に、とっさに出た言葉は「私はあの人を知りません」でした。イエスさまとの関係よりも、自分の身を守ることを優先してしまう、私たちの姿です。人にどう思われるかは関係なくても、自分の言動、日々の生活を「イエスさまとは関係ない」としていくなら、イエスさまとの関係よりも自分の快適さ、自分の慣れ親しんだ状況を優先していくなら、それはペテロと同じです。「私はあの人を知りません」ということです。私たちは、「イエスなんて知らない」と容易に言ってしまう。
そして、同じことが繰り返されていきます。58節、しばらくして、また別の人から言われるのです。「あなたも彼らの仲間だ。」これは受け取りようによっては褒め言葉なわけです。あなたは確かにクリスチャンだ。あなたは確かにイエスと共に生きている。しかし、ペテロはそれも否定するのでした。
ペテロは戦っています。先ほども言ったように、イエスさまに従っていきたい思いがなくなったわけじゃないんです。イエスさまとの関係を完全に否定してしまったわけじゃないです。だって、彼はまだ立ち去らずにここにいるんですから。最初に指摘された時点で、最初にバレた時点で、立ち去ることだってできました。でもとどまり続けた。恐れと焦りでいっぱいになりながら、それでもイエスさまがどうなったかを知ろうと、その場にとどまり続けたのです。59節「それから一時間ほどたつと」、彼は一時間もここにいた。自分も捕まるんじゃないかという恐れと戦いながら、それでも何とかイエスさまの安否を知ろうとそこにいたんですよ。ペテロの葛藤を思い描きながら、ネガティブな自分でもそのままそこに留まり続けたペテロに思いを馳せながら、いたたまれない思いと、そしてペテロに対する親近感で胸がいっぱいになります。
彼は、また別の人から言われてしまいます。59節「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」言葉のなまりで、ペテロが北部ガリラヤの人間だということがわかってしまいました。今捕まっているイエスはガリラヤのナザレの人です。先の二人の証言と合わせて、「確かにそうだろう。ガリラヤ訛りのこの男は、ガリラヤからイエスについてきたのだろう」と言われてしまったのです。
ペテロの答えは、また否定でした。60節「あなたの言うことは分からない。」他の福音書には「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め」という表現があります(マタイ26:74)。風前の灯のような、吹けば飛ぶような信仰でなんとか留まっていましたが、自分自身の特徴を指摘されて動揺したのでしょうか。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が言われた通りになりました。33節〜34節「シモンはイエスに言った。『主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。』しかし、イエスは言われた。『ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。』」マルコの福音書には、それに対するペテロの応答があります。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31)彼は力を込めて言い張ったのでした。しかし、彼は鶏が鳴く前に三度イエスさまを知らないと言ってしまったのです。
ペテロがイエスさまを三度否認したこの出来事は四つの福音書全てに載っていますが、ルカだけが記していることがあります。それが61節「主は振り向いてペテロを見つめられた。」という、ここです。これはルカにしかない表現です。ルカがこれをどうやって知ったかといえば、ペテロの自己申告だったでしょう。イエスさまがペテロを見つめられたというのは、ペテロ本人にしかわからないことだからです。そして、ペテロもまたイエスさまを見つめたということ。二人の目が合ったということです。ずっと後になってから、ペテロはこの時のことを回想して、ルカに語って聞かせたのですね。
ペテロが思い出したイエスさまのまなざしは、ペテロを責めるようなものではなかったはずです。言った通りだっただろう?というものではあったと思いますが、怒っているような、軽蔑するようなまなざしではなかったはずです。31節〜32節「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直ったら。つまりここでイエスさまはペテロが信仰的に挫折することを知っておられました。しかし立ち直るようにと祈っておられた。イエスさまは、失敗してしまったペテロだけでなく、その先のペテロのことも見据えておられました。ペテロのはっきりしない、いざという時に頼りにならない態度のことも、そのまま受け止めて、その先に彼が成長することを見据えて、祈っていてくださった。イエスさまもまた、ネガティブ・ケイパビリティの視点でペテロを見ていてくださったのですね。そのまなざしは、私たちにも向けられています。
<詩篇73篇21節〜24節>
詩篇73篇21節〜24節をお読みします。
私の心が苦みに満ち
私の内なる思いが突き刺されたとき
私は愚かで考えもなく
あなたの前で 獣のようでした。
しかし 私は絶えずあなたとともにいました。
あなたは私の右の手を
しっかりとつかんでくださいました。
あなたは 私を諭して導き
後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
私たちには、苦しみ、内なる思いが突き刺され、心のうちがぐちゃぐちゃになって、まるで獣のように吠えるしかできない、そんな時があります。愚かで、考えなし、わきまえのない時があります。しかしそれでも、何と驚くべきことか、23節「私は絶えずあなたとともにいました」。これは、私たちの側で「いた」んだというわけじゃないですよね。だって「獣のような心」で、何をしているかわからない状況なんですから。それでも、絶えずあなたと共にいたというのは、神さまの側でしっかりと掴んでいてくださったからに他なりません。
私たちの側でどんなにイエスさまを否定しても、いや、否定したくない、でも怖い、というギリギリの戦いの中でやっぱりどうしても否定してしまうというような時でも、イエスさまが見つめていてくださいます。愛に満ちた眼差しで、私のことを見据えてとりなして祈っていてくださいます。そして、私の右の手をしっかりつかんでいてくださる。右の手は力の手です。離さないようにしっかりつかんでいてくださる。もし私が手を開いてしまっても離れないように、ギュッと手首を掴んでいてくださる。そんなイメージです。そして私を導き、励まし、神と共に歩むという聖化の歩みに伴ってくださり、後には栄光のうちに受け入れてくださる。栄化ですね。天の御国で文字どおりともにあってくださるのです。
この詩篇から作られた賛美の動画があるので、後ほど聖餐式の時にみなさんで聴きたいと思います。(→こちらから)
https://youtu.be/K-DXQhsa8NY?si=KUU2QLdAoStkRhCv
今日はネガティブ・ケイパビリティという話をたくさんしていますが、まさに神さまがこういう視点で私たちのことを見てくださるんです。獣のような心でも、イエスさまのことを知らないと言ってしまうような時があっても、神さまは変わらずに私たちと共にいてくださる。あなたと共にいてくださいます。だから、私たちもその視点で、そのまなざしで、自分のことを見ていたいし、周りの人のことを見ていきたいですね。
<ペテロの悔い改め>
この後、ペテロは悔い改めました(61節〜62節)。いや、正確に言うと悔い改めのプロセスを歩み始めました。ただ泣くことが悔い改めではありません。それはただの後悔です。しかし悔い改めとは向きを変えること。イエスさまを否認してしまう生き方から、イエスさまを証しする生き方へと、舵を切り直すことです。ペテロはその歩みを始めたのです。悔い改めとはプロセスであることがわかります。ペテロは外に出て激しく泣きました。その後、彼はどうしたのでしょう。イエスさまの十字架を遠くからこっそり眺めながら、絶望したでしょう。取り返しのつかないことをしてしまった。もう二度とお会いできないのに、最後の最後は最悪の別れ方をしてしまった。後悔の念でいっぱいでした。しかし、彼はそれでも他の弟子たちと一緒にいましたよね。ユダは絶望して一人離れて行きましたけれども、ペテロとユダの違いが何だったかと言えば、ペテロは主を信じる者たちの交わりから離れなかったんです。そしてイースターの朝、マグダラのマリヤから報告を受けて墓まで走って行きました。そして空の墓を見て信じました。そしてその日、鍵の掛けられた部屋の中で皆で集まっていたときに主と再会します。八日後にはトマスも一緒にまたお会いし、その後はガリラヤまで行ってそこで主に気がついて湖に飛び込んで会いに行きます。三度主を知らないと言ったペテロは、そこで三度主を愛するとお答えし、召命、生きる使命、与えられた役割を再確認しました。このようにペテロはぐちゃぐちゃでも、みじめでも、何でもいいから主から離れなかったのです。外に出て行って激しく泣いたそのときも、実は先ほどの詩篇のように、主は共におられたのです。彼は、イエスさまから言われた「あなたはわたしを三度知らないという」ということばを思い出して泣きました。それ以上に、その直前に言われた「わたしはあなたのために祈っているからね」というそのことばを思い出していたはずです。彼はそれを思い出して泣いたんです。悔い改めはプロセスです。一気に悔い改められるわけじゃない。そうやって、何度でも何度でも主のことばを思い出しながら悔い改めの道を歩んでいく。それは、イエスさまと一緒にその道を歩んでいくことになるのです。
今日、これから聖餐式を持ちますが、まさに主がこれを守るように言われたその席で、ペテロは「私はあなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったのでした。しかし、その後は今読んできた通りです。自分の熱心で信仰を守っていくのではありません。そんなものは、状況や環境によってすぐに左右されます。熱心に、信仰深く、確信を持ってイエスさまについていくのではなく、迷いながら、戦いながら、ときに否定してしまいながら、それでもイエスさまと共に行く。イエスさまのまなざしに気がつきながら、つまり自分もイエスさまを見つめながら、遠く離れてでもこの方についていくものでありたい。悔い改めながら、この方についていきたい。聖霊はそのようなペテロに、また弟子たちに注がれました。私たちも日々新たに聖霊の満たしを求め、主と共に歩む、主についていく歩みを追い求めていきましょう。主が必ずそのようにしてくださいます。(ヘブル12:2)
ーーー
私たちを見つめていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
私たちの右の手をしっかりと掴んでいてくださる父なる神の愛、
そして、悔い改めて主と共に歩む生き方を励まし、導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【3/30】
マタイの福音書5章4節
「悲しむ者の幸い」
マタイの福音書も五章に入り、山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる箇所を少しずつ読み進めています。山上の説教はその冒頭にある八つの幸いをはじめとして、5章から7章の終りまで、キリスト者の倫理が示されているところです。キリスト者の倫理、つまりイエスさまの弟子の生き方ですね。それは「この世からは離れて、きよく正しい生き方をしなさい」というようなものではありません。5章1節にイエスさまがまず「この群衆を見て」とあったように、イエスさまのことばを聞きはするけれども従うわけではない「群衆」をイエスさまはまずご覧になって、その上で彼らに仕えるようにと、彼らのただ中で生きるようにと弟子たちにその生き方を教えられたのが山上の説教です。13節、14節に「あなたがたは地の塩、世の光です」とあるとおりです。また、大切なことは、これらは決して「こうしなければクリスチャン失格だ」というようなリストではないということです。確かに、求められるハードルは高いように思えます。例えば39節「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」であったり、44節「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というところなど。私たちはこれを読んで「自分には無理だ。」と思ってしまうのです。しかし、「すでにといまだ」です。ここに書いてあることを達成できない自分を責めたり、落ち込んだり、もしくは「どうせ無理だ」と思うのでもなく、神の国の「すでにといまだ」の間で、私自身もこのような幸いな者へと「すでに」されており、かつ、「これからも」このように変えられ続けていくという希望をしっかりと見据えていたいと思います。八つの幸いが「幸いなるかな」ということばで始まっているように、山上の説教で教えられていることは、まさに「幸いな」生き方なんです。私はたちはすでにその幸いに入れられていますし、これからもこの幸いを味わい続けることができます。
<悲しむ者の幸いとは>
今日は八つの幸いの二つ目。「悲しむ者は幸いです」という、ここです。一体、悲しむことが幸いだなんて、これはどういう意味でしょうか。しかも原語だと「今悲しんでいる人」というニュアンスになりますが、イエスさまは目の前の悲しんでいる人に向かってどのような意味でこう言われたのでしょう。一つ確認しておきますが、これは悲しい心には蓋をして、無理にでも笑っていきなさいというようなことではありません。先週も開きましたが、マタイの9章には「(イエスさまが)群衆を見て深くあわれまれた。彼ら羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」とあります(9:36)。また、ラザロが亡くなった時には涙を流されたという場面もあります(ヨハネ11:15)。私たちの心が経験する、感情的な悲しみについて、悲しむ必要はないと言っているのではありません。イエスさまは共に悲しんでくださるし、私たちの心に寄り添ってくださるお方です。
では、「悲しむ者の幸い」とは何か。イエスさまがここで何を前提にして話しておられるのかを知るために、4章16節に戻りましょう。聖書の読み方のコツとして、極端なことが書いてあるなと思ったら文脈を振り返ってみてください。聖書の内容って箇条書きに記されているわけではなくて、話の流れ、話の前提の上に重なっているのが多いので、特に福音書なんかそうですね。山上の説教に関しても、その土台となっている話の前提というのは、4章16節だと思いますね。「闇の中に住んでいた民は/大きな光を見る。/死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が昇る。」イエスさまが宣教を開始された場面です。この時からイエスさまは宣教を開始されて、神の国の福音を語り始められたわけです。この暗闇というのは苦しみのこと、悲しみのこと。そこに光がきた。喜びがきたんです。引用元であるイザヤ書9章2節、3節を見るとさらにはっきりわかります。苦しみの中に、喜びの光が照ったんです。彼らは喜んだ。そう、光に照らされた者は喜んだとイザヤは記しています。そのことは、時を経てこのマタイの福音書で、イエスさまの時に成就しました。苦しんでいた者に、闇の中にいた者に喜びがもたらされたのです。イザヤ書のもとの文脈というのは、バビロン捕囚です(イザヤ8:22)。自分たちの偶像礼拝の罪、そのさばきとしてのバビロン捕囚です。国を失い、連れていかれました。そこでは名前や言葉、つまり自分のアイデンティティーを否定されて、自分ならざる者として生きなければならなかった。彼らは自分の罪の結果を悲しみ、そして自分個人ではどうしようもない構造的な社会全体の罪とその結果を悲しんでいたのです。しかし、光が照るとイザヤは預言した。救い主が来ると。今日の聖書個所ではその通りにイエスさまが来られたという話題が続いて、そして、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と語られる。これも同じ文脈にあります。「悲しむ者」とはつまり、自らの罪を悲しみ、またこの社会の罪を、この世界の罪を悲しむ人のことです。神さまの悲しみを知り、そこに心を寄せている人のことだと言えます。神さまの悲しみを知る人。
<神と共にこの世界を「かなしむ」>
私たちのあらゆる苦しみや痛み、また歪み、これらは、神さまのもともとの願いではありません。神さまが造られた世界は「見よ、それは非常に良かった」という世界ですから(創世記1:31)。罪で歪んだこの世界を、私たちが日常的に経験しているあらゆる苦しみを、神さまは悲しんでおられます。「ああ、これは本来の姿じゃない」と言って悲しんでおられる。だからこそ、イエスさまが十字架にかかってくださったわけです。罪のど真ん中にある私たちが、救われるために。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)神さまはこの世界を愛しておられます。私たちを愛しておられる。この世界の罪、私たちの罪を、この現実を悲しみつつ、私たちのことは、この世界そのもののことは愛しておられる。ひとり子のいのちを(つまりご自身のいのちを)かけるほどにです。
この「愛していおられる」ということと、「悲しんでおられる」ということ。これらを、とてもよく言い表すことができる古い日本語があります。それが「かなしい」ということばです。万葉集などに見られる表現ですが、この「かなしい」ということばを書く時に、悲哀の悲で「悲しい」とも書いたし、愛という字を当てて「愛しい」とも書いたのです。「かなしみ」と言った時に、そこには「せつなさ」だけでなく「愛おしさ」が含まれている。神さまがこの世界の罪の現状を悲しんでおられる、そこには私たちへの限りない愛が込められているんです。
その上で、「悲しむ者は幸いです。」というこのことばを読むと、迫って来るものがあります。神さまがこの世界を愛し、かなしんで(悲しんで/愛しんで)おられる、その思いを共に持ち、自分も同じようにこの世界をかなしむ(悲しむ/愛しむ)、人を愛し、この世界を愛し、罪によるその痛みを悲しむ者は幸いだということになります。神と共にこの世界を愛し、悲しむ者は幸いなのです。
罪を悲しむとは、神さまのかなしみ(悲しみ/愛しみ)を知ることです。イースター前の40日間をレント(受難節)と呼びますが、神さまの悲しみに心を寄せる期間だということもできるでしょう。今一度、神さまの愛、そのかなしみを知らされていく日々でありますように。
<その人たちは慰められるから>
ではそれがなぜ幸いかと言うと、その理由は「その人たちは慰められるから」だというのです。
この「慰められるから」というのは、未来形で書かれています。八つの幸いは始めと終わりが現在形で、中の六つが未来形という一まとまりの形を取っていると言いましたけれども、これは神の国自体の「すでにといまだ」をあらわします。イエスさまが来られたことで、私たちは慰めを得ました。私たちの罪を贖う方、この世界を贖う方、救い主イエスさまが来られたんです。しかし、まだ罪を悲しむ現実があります。私たちは今もなお苦しんでいる。悲しんでいます。自分の罪ゆえの状況だったり、自分にはもうどうしようもない構造的な社会の罪であったり、その歪みの中で痛み、苦しみ、悲しんでいる。この社会を、そこにいる人々をを愛しつつ、愛しているからこそ、心を痛め、悲しんでいます。それでも、「その人たちは慰められる」と聖書は言うんです。イエスさまが来られたからすでに慰められています。かつ、イエスさまがまた戻って来られる時、再臨の時に、必ず、私たちは神さまの慰めを完全な形で受けることができる。よく言っていることですが、ギリシャ語の未来形にあいまいなニュアンスはありません。これは必ずそうなるという宣言なのです。
ちなみに、この慰められるという表現ですが、ギリシャ語でパラカレオーといいます。慰めを与える人のことはパラクレートスと言い、聖書でパラクレートスといえば、聖霊のことですね。助け主と訳されています。聖霊様が私たちに働きかけ、助け、慰めて下さるのだということです。だから私たちは、聖霊に満たされることを求め続けていかなければなりません。聖霊が私たちに、神さまの視点を与えてくださる。神さまの思いでこの世界を愛し、悲しむようにと、聖霊が私たちを導いてくださるのです。
<ラケルの苦しみ>
さて、山上の説教に至る文脈(つまり人の罪の現実、暗闇)を振り返ってみた時に、2章17節〜18節の悲しみを忘れることはできません。「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『ラマで声が聞こえる。/むせび泣きと嘆きが。/ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。』」イエスさまが幼い頃ベツレヘムで起こった幼児虐殺事件の箇所ですけれども、ここには三つの悲しみが重ねられています。ベツレヘムの母親たちの悲しみと、預言者エレミヤの時代にバビロンに子どもを連れていかれた母親たちの悲しみ、そして創世記にまでさかのぼってヤコブの妻ラケルの悲しみ。この三つが重ねられています。
ラケルのことを覚えておられるでしょうか。姉のレアとともにヤコブの妻となり、姉妹間で子どもの数を競い合った、あのラケルです。ラケルは旅の途中、ベツレヘムに向かう道で命を落としています(創世記35:16-19)。女性の出産には苦しみが伴います。その先には新しい命の誕生の喜びが待っているわけですが、命を削るようにして産む。そして、そのまま自分が命を落とすことがある。恐らく逆子の難産だったのです(同17節)。頭が引っかかって赤ちゃんが危険な状態になりやすく、帝王切開になることも多いといいますが、この時代に果たしてそれができたか。とにかく難産でした。どうにか産み落としたその時でしょうか、ラケルは死に臨み、そのたましいが肉体から離れ去ろうとするときにその子の名を「ベン・オニ」と呼びました。私の苦しみの子という意味です。
ラケルの苦しみとは出産の苦しみだけでなく、ここまでのラケルの歩みのすべてが苦しみだったのです。ラケルはヤコブの愛を一身に受けた幸せな妻、のはずでした。しかし、姉のレアが次々に子どもを生んでいく中で、ラケルにはなかなか子どもが与えられませんでした。レアは夫の愛を得ようと必死でしたが、ラケルにはそれは与えられていて、その意味ではラケルの方が強い立場だったのです。しかし、子どもがいなかった。そのことがラケルを苦しめました。どれだけ夫の愛を受けていても、姉と自分を比較し、劣等感に苦しみ続けたのがラケルでした。そして、その願い通りに二人目の子が与えられた時、彼女は自分の命を落とすことになりました。彼女が呼んだ「私の苦しみの子」という名前には、最後まで満足できずにずっと求め続けて苦しんで生きてきたラケルの人生が重ねられていたのかもしれません。そしてやっとまた子どもが与えられた時、自分の命は燃え尽きてその子にもう会うことはできないのです。
このラケルが葬られたところというのが、ベテルからベツレヘムに向かう道の途上にあるラマという場所で、バビロン捕囚の時に、預言者エレミヤがラマの母親たちの嘆きにラケルの嘆きを重ねました。「ラマで声が聞こえる。/嘆きとむせび泣きが。/ラケルが泣いている。その子らのゆえに。/慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。/子らがもういないからだ。」(エレミヤ31:15)ラケルの場合は母親が死んでしまったわけですが、バビロン捕囚の時には子どもたちが多く連れて行かれました。どちらにせよ、もう会うことができないという嘆きです。
そしてマタイの2章です。ヘロデ王がベツレヘム近郊の2歳以下の男の子を皆殺しにした際、マタイはこのエレミヤの預言を引用して、これはその成就だと言います(2:17)。ラケルの嘆きと死は、バビロン捕囚の時代、また福音書の時代の母親たちの嘆きのモチーフになっているのです。エデンの園で人が罪を犯したとき、主なる神はエバに「あなたの産みの苦しみを増す」と言われました(創世記3:16)。子どもを産むということだけでなく、育てることも。また子どもが与えられないということや、育てることができない、会うことができないということも含めて、今読んだ通り、女性には苦しみがあります。悲しみがある。その根源はエデンの園で人が罪を犯した出来事に遡ります。自分ではどうしようもないものです。そしてラケルが苦しんだ原因の一つであった一夫多妻制、これも当時は当然のことだったという意味では構造的なもの、人間社会の罪であり、自分ではどうしようもないことですよね。ラマの母親たちの嘆き、これもそうです。バビロン捕囚のため、つまりイスラエルの国の偶像礼拝の罪が原因なのです。自分ではどうしようもない苦しみがあり、悲しみがある。それが私たちの現実です。しかし、エレミヤの預言はこのように続きます。「主はこう言われる。『あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。ーー主のことばーー彼らは敵の地から帰って来る。あなたの将来には望みがある。ーー主のことばーーあなたの子らは自分の土地に帰って来る。』(31:16,17)ラケルの嘆きと死には母親たちの、いや全ての女性たちの嘆きと苦しみが重ねられてきましたが、主は聞いておられて、それを慰め、癒し、回復させてくださるのです。私たちも自分の罪のゆえに悲しみます。また人間社会の罪のために傷つき、痛みます。これは自分の力ではどうすることもできない種類の苦しみです。痛いのなら、うめくべきだし、泣きたいのなら、泣いた方がいいです。しかし、その上で神さまは「あなたの泣く声、目の涙をとどめよ」とおっしゃいます。泣くだけ泣いたら、最後には、それをとどめなさいと。悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるから、と。
もしかしたら、ラケルのように、神さまの慰めやいやしを生きている間には体験できないということがあるかもしれません。しかし、それでも私たちは「すでにといまだ」を信じるのです。イエスさまの再臨の日、それは必ず成就します(黙示録21:4)。私たちは必ず神さまの慰めを受けます。この希望は、この慰めは、遠い将来のあいまいなものではありません。あやふやなものではありません。私たちは今それを確信することができます。信仰によって今、神の慰めを受け取ってまいりましょう。聖霊はそのことを助けてくださるんです。さあ、信仰によって今、神の慰めを受け取っていきましょう。そうやって今週も、一歩一歩歩んでいこうではありませんか。(黙示録21:4)
ーーー
私たちの悲しみに寄り添い、伴っていてくださる主イエス・キリストの恵みと、
ご自身の悲しみを知る人にいやしと回復を与えてくださる、父なる神の愛、
そして、必ず慰めを与えてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【3/23】
ヨハネの福音書14章6節〜9節
霊的成熟⑤「愛と義〜十字架に表される父の思い」
『霊的成熟を目指して』を読み進める中で教えられていることは、私たちは聖霊の働きによって主イエスと同じかたちに姿を変えられていくということです(Ⅱコリント3:18)。イエスさまと同じ性質、同じあり方という事、つまり霊的に成熟するということです。主にある成長と表現することもできるでしょう。そして、そのための鍵は、天の父との人格的関係にある。つまり、天の父の御声を聴き、こちらからも自分のことばで応答するという「ことばの関係」にあるんだということ。それを通して、私たちは霊的に成熟する。主イエスに似た者へと成長する。神さまとの「ことばの関係」を通して、御心がわかる人格へと成長していくのです。こういったことについて、自分には今も今後も無理だなどと思う必要はありません。私たちは主にある成長においても「すでにといまだ」の狭間にあるからです。私たちの内にはすでに聖霊が住んでおられる。かつ、成長の途中なのです。私たちは聖められています。しかし同時に、聖化の途上にある。私たちは必ず、霊的に成熟するのです。聖霊が私たちを主と同じ姿に変えてくださるという聖書のみことばは必ず成就するのだからです。
さて、今日は第三部の第一章をふりかえりたいと思いますけれども、霊的成熟の鍵となる「天の父との人格的関係」について、天の父についてどのようなイメージを持っておられますか?という問いがなされました。私たちはどうしても自分の父親のイメージで父なる神を捉えてしまいます。厳しいだけの父親像があったり、優しいだけの父親像があったりするわけです。場合によっては父親像がないというケースだってあります。人間の父親のイメージで父なる神を理解しようとしても、そこには限界がある。しかし、「神とは父親のような存在」なのではなく、むしろ、神さまの存在をあらわすために父親というものが造られたのだと、本の中で指摘されていました。「神さまというのは父親のような存在」なのではなくて、父なる神を指し示すために父親という存在がある。卵が先か鶏が先かという話とは違って、これは明らかに神さまが先なんです。本来は神さまが先で、その神さまを指し示すための役割として父親という役割があるわけです。しかし人には罪がありますから、人間の父親は不完全なので、そのイメージで神さまを捉えてしまうと、聖書が示している神さま像とは違う理解になってしまう。神さまを指し示すことができない、できていない。これは人間の父親たちが持つ限界ですね。私は自分のことを振り返ってみても、自分が父なる神さまのことを正しく表現できていないということに、改めて戦慄を覚えるというか、今までそうやって自分のことを考えてこなかった、自分と神さまのことだけで、自分が誰かにとって神さまを指し示す存在だということへの意識が希薄だったと思います。これは「子どものいる既婚男性」だけの話ではなくて、誰もが霊的な親として、誰かに神さまを指し示す存在なわけです。それは自分の子どもに対してかもしれないし、友人知人に対してかもしれないし、逆に自分の親に対して、自分が霊的な親になるということもありますよね。ですので、自分はいわゆる「父親」ではないから関係ないと思わないでください。私たちはみな、誰かに神さまを指し示すという霊的な親の役割を持っているのです。
ということは踏まえつつ、一番わかり易い例として聖書に出てくる父親たちのことを振り返りますけれども、やっぱり神さまのことを正しく指し示せてはいないわけです。例えばイサク。彼は双子の息子エサウとヤコブのうち、兄エサウを偏愛していました(創世記25:28)。それはそのまま、今度はヤコブがヨセフを偏愛したことに引き継がれていますよね(同37:3)。また、祭司エリ。少年サムエルに対しては良き師だったかもしれませんが、自分の子どもたちの非道を責めても正すことはせずに放置、そのために自分も命を落とすことになりました(第一サムエル3:13)。聖書の中で、このような例は枚挙にいとまがないんですよね。これが人の現実。これが罪で歪んだ人の現実です。父親たちは自分自身を通して神さまを指し示すことができない。愛し方が偏っていたり、不正を正し義を立てることができない。父親たちだけでなく、私たち一人一人がみなそうなわけですが、特に「父なる神」と言ったときに、私たちが持っている父親のイメージが影響してくるわけです。そこには限界があるし、それは深刻です。
であるからこそ、私たちは、人間の父親像ではなくみことばから父なる神を理解しなければなりません。むしろ「わたしを見た者は父を見たのです。」と言われたイエスさまから、父なる神を理解しなければなりません(ヨハネ14:9)。「父」ということばにひっぱられて、地上の父親のイメージがどうしてもついて回るのですが、そこには限界があるのだということ、むしろ、イエスさまを通してこそ、本当の意味での「父」を知れる。本当の意味での父を知るには、私たちの父親像や一般的な父親像ではなく、イエスさまを通して知ることが必要なのです。
<聖=愛+義>
聖書は神さまの性質を「聖」だと言います(レビ11:44-45、イザヤ6:3など)。これは「きよらかな」というような意味ではなくて、全く別の、区別された様子のことですが、別の側面から神さまのご性質を言い表している聖書箇所もあります。ローマ8章22節「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。」聖なる神さまには、いつくしみ、つまり愛と厳しさのが両方ある。「聖=愛+義」です。聖書の神は聖なる神、そして愛と義の両方がある神です。
愛とは無条件で赦す愛です。アガペーというギリシャ語が使われています。神の愛は無条件の愛です。しかし同時に神さまは義なるお方でもある。義とは正しい関係性のことです。正しい裁きをするということです。物事を正しいあり方にするのです。そして、本来、私たちはその裁きに耐えられません。
この神の愛と神の義、相反する両極端のものが見事に重なり合ったものがイエスさまの十字架でした。聖書の枠組みとして、罪が赦されるためには血が流されなければならない。いのちが捧げられなければならないという世界観があります(レビ17:11、ヘブル12:13等)。それが罪の赦しのための、つまり神さまとの関係回復のためのあり方。正しいあり方です。神さまはそこでどうされたか。ご自分のひとり子イエスさまを十字架にかけるという方法を取られたのでした。つまりここに、神の愛と神の義があらわされているのです。
<神ご自身のいのちを>
ところで、キリストの十字架とは、父なる神による、子なる神への虐待ではないかと言われることがあります。しかし、聖書の神は三位一体なんだということを忘れてはなりません。神さまはいわば、ご自身のいのちをかけられたのです。使徒20章28節には「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」という表現があります。文脈上、ここで言われている「神」はキリストというよりも父なる神です。しかし、神がご自身の血をもって贖いをなされたとパウロは言うのです。
そもそも、イエスさまの十字架は強制されたものではなく、イエスさまご自身の自発的な行為だったという表現は聖書に多数あります(ヨハネ10:17-18、ピリピ2:6-8)。大枠としては、父なる神さまのご計画によって子なるキリストが十字架にかかったという表現で基本的には良いのですが、聖書にはいろんな表現があって、少なくともこれが強制されたことではなく、自発的なものだったことは確かです。三位一体の神ご自身が、私たちのためにいのちを捨てられたということを、今日は特に心に留めたいと思います。
<神の愛と神の義>
この十字架に、キリストの十字架に、父なる神の愛は完全に現れているのです。だから、イエスさまは「わたしを見た者は父を見たのです。」と言われました(ヨハネ14:9)。
キリストの十字架には、父なる神の義が示されています。ローマ3:25「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。」血による宥めのささげ物とはつまり十字架のことですね。それは神の義が明らかにされるためだったというのです。
そして、キリストの十字架には、父なる神の愛が示されています。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」イエスさまの十字架には、私たちに対する神さまの愛が明らかに示されているのです。
<神の子として天の父を見る>
私たちの罪の現実は、天の父を正しく見ることができなくさせています。つまり、天の父を指し示すはずの父親像が歪んでしまっているので、私たちは天の父の姿を正しく見ることができない。それってとても重大なことなんです。天の父を正しく見れないということは、神の子とされた自分の立場を理解できていないということだからです。
私たちのうちに住んでおられる聖霊は、私たちをして父なる神を「アバ、父」と呼ばせるお方です(ローマ8:15)。「アバ」とは、イエスさま当時の話し言葉であったアラム語で「お父ちゃん」とか「パパ」というような意味で、子どもが親しみを込めて父を呼ぶ呼び方なんです。イエスさまが天の父を「アバ」と呼ばれたことがマルコの福音書に記録されていますが、それは、当時の読者にとって衝撃的なことでした(マルコ14:36)。聖書にもそのまま「アバ」という表現で残されているほどですが、なんと驚くべきことに、私たちも天の父を「アバ」と呼べる。天の父を「アバ」と呼んでいい立場にされているんです。救いとは、神の子とされることです。そして聖霊は、私たちが神の子どもであることを明確にしてくださるお方です(ガラテヤ4:4-7)。
あなたは神さまの子どもです。神の子とされたんです。養子として。神がご自身のいのちをかけて大切にしておられる、かけがえのない存在です。私たちにとって父親というもののイメージがどうであろうと、神さまは私たちの天の父です。私たちにいのちを与え、私たちをいのちがけで愛しておられます。私たちは子とされたものとして、その父を、天の父を、まっすぐに見上げたい。
そのためには、十字架のキリストを見据えることが必要なんです。そこには天の父が、そのいつくしみと厳しさの両方があらわされているからです。
ヨハネ14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」今、イースター前の40日間ということで、受難節(レント)と呼ばれる期間に入っています。イエスさまの十字架を偲び、改めて感謝する日々でありますように。また、礼拝ではマタイの福音書を読み進めながら、イエスさまの姿、イエスさまの教えを振り返っています。イエスさまの言動はすべて十字架に至るためのものですから、十字架の場面だけでなく、そのすべてが重要です。その意味で福音書ってとても大事です。私たちは今一度、イエスさまと出会い直していきたい。そうやって父なる神の姿を見ていきたい。私たちが子としてどれほど愛され、どれほど大切にされているか、今一度、みことばからそのことを受け取り直していきましょう。聖霊がそのように導いてくださいます。聖霊は、私たちが神の子であることを明らかにしてくださるお方です。安心して、祈りつつ、お委ねしつつ、みことばをいただいていきましょう。(ヨハネ14:6)
ーーー
私たちに天の父を示してくださった主イエス・キリストの恵みと、
ご自身のいのちをかけて私たちを大切にしてくださっている父なる神の愛、
そして、神の子とされた身分をいつも思い出させてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、豊かにありますように。
アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【3/16】
マタイの福音書5章1節〜3節
「心の貧しい者の幸い」
今日から山上の説教と呼ばれる部分を取り扱います。5章1節にあるように、山の上で語られたことから「山上の説教」と呼ばれます。写真を用意してきました。ガリラヤ湖のほとりにこのような教会堂が建てられています(写真)。「山上の説教の教会」です。ドーム型の屋根を支える壁は上から見えると八角形になっていて、先ほどお読みした聖書個所の八つの祝福を表しているそうです。この教会の建物の少し脇に行くと、湖に向けてなだらかな斜面になっていて、ここが山であることが分かります。ガリラヤ湖は周りを山に囲まれているので、確かにこういう場所で山上の説教を語られたのだと思います。風に乗って声が遠くまでよく聞こえるそうです。



マタイの福音書をここまで読んできて、これまでは、イエスさまがまことの王であること、神の国の福音を宣言して宣教を開始されたことなどを見てきましたが、五章からはイエスさまの教えの詳細が明らかになっていきます。さっそく見ていきましょう。
<1~2節>
まずこれが誰に向けて話された内容かというと、弟子たちです。1節と2節には「群衆」と「弟子」という言葉が出てきます。群衆というのは直前の25節にあったように、イエスさまの噂をきいて国中から集まってきた人たちのこと。弟子とは、20節や22節にあったように、イエスさまに従った人たちのことです。先週、福音には力があって、大勢の人がそれを聞きたいと願い、集まってきたと言いましたけれども、聖書は群衆と弟子を分けて表現しています。あえて端的に言えば、群衆とは聞くだけの人のことです。25節には群衆がイエスさまに「従った」とありますが、あくまでも群衆としてついていったのです。弟子として従っていくこととは別です。イエスさまの教えは、特に今日の山上の説教などは一般の方々にも有名で、芥川龍之介なんかもこれに感銘を受けたと書いているそうですが、いいことを言っているな、聖書にはいいことが書いてあるなで止まっているなら、それではあくまでも群衆なのです。
しかし、群衆だからといってイエスさまは軽く考えておられるわけではありません。イエスさまが何のために弟子を任命されたかといえば、「人間をとる漁師」にするためでした。人々を救いの中に入れるためでした。9章36節には、人々がまるで羊飼いのいない羊の群れのように弱り果てているのをかわいそうに思われたともあります。私たちはイエスさまを信じていますし、少なくとも従いたいと願ってはいるわけで、弟子なのですが、だからと言って群衆を、つまりクリスチャンではない人々を見下すようなことがあってはなりません。自分も群衆の一人だったわけですし、イエスさまは今も群衆に向けて、そこにいる人、ひとりひとりに対して熱い思いを持っておられるわけですから。「私は救われた人。あの人たちは救われていない人」として、そこに線引きを持つべきではないですね。むしろ彼らに愛をもって仕えるためにイエスさまの弟子とされているのだということを思い出しましょう。イエスさまは群衆を見たからこそ、話し始められた。イエスさまは「群衆を見て」、そのうえで「弟子たちに」語られました。
その内容が何かと言えば、それは「天の御国に属する者の生き方」です。あなたたちは、人々のただ中にあってこういう生き方をしなさい。この世から離れた場所でではない、この世のただ中にあって、しかし天の国に属するものとして、天国人としてこのように生きなさいということですね。山上の説教は、救われた者が、弟子とされた者がどのように生きるのか、その指針です。羅針盤ですね。それはこの世から分離しての生き方ではなく、この世のただ中にあっての生き方だということを忘れずにいたいと思います。
1節、イエスさまは腰を下ろして話をされました。当時のラビは立って聖書を朗読し、座って教えを語ったのだそうです。また2節、口を開いて教え始められた。話す時に口を開くのは当然ですが、これも、この教えに権威があることを意味するユダヤ的な表現です。マタイがわざわざこのように表現しているのは、読者のユダヤ人たちに向けて、これをしっかり読んでほしいと思ったからです。これはいのちのことば。これは権威のあることばです。その熱意は、今の私たちにも向けられています。私たちもそこに招かれています。主は口を開いて教えられます。私たちに分かるように、言葉をもって語りかけられる。しっかりとそれを聞き、従っていきたいと思うのです。
<3節>
さて、山上の説教は「八つの幸い」から始まりますが、その一番初めがこれです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」ギリシャ語の原文ではまず「幸いなるかな」、「幸いだ」、ここから始まっています。これは詩篇をはじめ、旧約聖書によく見られる表現だったので、これを聞いた弟子たちにも、その周りで聞いていた群集にも、またその記録をここで読んでいるマタイの周辺のユダヤ人クリスチャンたちにも、良く分かる、ピンとくる表現でした。「幸いなるかな」、これは神さまの契約、神さまの約束の中での祝福のことです。単に「幸運」だ、ラッキーだという以上に、神さまの祝福だということをここで言っています。
では「心の貧しい者」とはどういうことでしょう。これは「心【が】すさんだ」状態、心がギスギスした状態のことを話題にしているのではなくて、「心【において】」貧しい、しかも実はここは「心」というよりも「霊」ということばなので、「霊【において】貧しい者」ということになります。どういう意味でしょうか。
聖書がいう「霊」と「心」は別です。心は感情のことですが、霊というのは私たちの存在の奥深くで神さまを求めている機能というか、性質のことだと言えます。心と重なり合ってもいるので、厳密に分けきれない感じでもあるのですが、基本的には分けて理解できます。心は感情のこと。霊は神さまを求める機能、性質。その「霊において」貧しいとは、ではどういうことか。しかもこれは単なる貧しさではなく、きわめて貧しい状態のことが表現されています。まったく無一文であり、自分ではこれっぽっちも自立できないような貧しさのことです。霊とは、私たちの存在の奥深くで神さまとの関係を求め続けている場所のことだと言いましたが、そこにおいて貧しいとは、きわめて貧しいとは、それはつまり神さまとの関係がなければ、自分は生きていけないのだということがはっきりわかっているということです。神さまの前に誇る物は何もないことを自覚し、自分は神さまのことを全く知らないことを自覚し、神さまからの招きに応答する力のないことを自覚し、だから神さまの恵みが必要なのだということ、神さまのみことばが必要なのだということ、御霊に満たされることが必要なのだとはっきり分かっている人のことです。それが霊における貧しさなんです。ある人はここの翻訳を「霊において乞食である人たち」としています。ちょっとどぎつい表現ですが、むしろそちらの方がニュアンスをきちんと表しています。神さまからの恵みがなければ生きていけない、それほどの貧しさです。何が何でも神さまから恵みをいただこうとします。神さまに向けて手を伸ばすわけです。そういう状態のことです。
そういう人は幸いなんです。霊における貧しさだけでなく、実際にこれを読んでいた読者、マタイが宛てて書いた初代教会の人々は実際に貧しい生活をしていました。私たちもそうですよね。働いても働いても生活が楽にならない。生活の貧しさを大なり小なり経験しています。しかし、たとい生活が貧しくても、霊においては貧しくていい。それこそが幸いなんです。祝福なんです。なぜなら、「天の御国はその人たちのものだから」です。
天の御国とは場所のことではなく、神さまが一緒にいてくださることのことだと言いました。「霊において貧しい人は幸いです。なぜなら、神さまが共にいてくださるのだから。」そういうことですね。
イエスさまを救い主として信じて、天の御国の民とされたなら、霊において貪欲に神さまとの関係を求めていきます。神さまが共にいてくださるという、神さまの臨在を求めるのです。主が共にいてくださることを見せてください、分からせてくださいと祈っていくんです。そして、その祈りは答えられるんです。だから、たとえ貧しくても幸いなんです。私たちの霊が満たされるから。主はその祈りに必ず答えてくださるので、私たちの霊は満たされる。だから、幸いなんです。たとえ身体が病を負い、心が折れてしまっていても、私たちの霊が満たされるなら、神さまとの関係が満たされるなら、私たちは幸いです。もちろん、身体のことも心のことも、神さまは心配してくださいます。そこは誤解のないようにと思います。聖書にも「健やかでありなさい」と書いてある(第三ヨハネ2節等)。しかしたとい、神さまの何らかのご計画によって身体や心が癒されない時にも、私たちの霊は変わらずに神さまとの関係に満たされていくんです。
もう召されましたけれども、久遠教会の顧問という形で関わってくださっていた精神科医の平山正実先生がこう言っておられました。精神科医の方なので、心の問題を数多く見てこられた方ですが、「どんなに心が病を負っていても、その人の霊の部分は変わらずに神を求めている。霊の部分というのは、心の病に関係なくしっかりとあって、神を求め続けている。」これが先生の実感としてあったということですね。印象深く覚えています。私たちのその霊の部分が、神さまとの関係に満たされていくのだということです。
<すでにといまだ>
ところで、山上の説教の冒頭を飾るこの八つの幸いの、はじめと終わりに、この「天の御国はその人たちのものだから」という表現があります。3節と10節ですね。この二つで他の六つを挟み込んでいます。こうやってこの段落をひとつのまとまりとして浮きだたせています。これらの祝福は別々の、バラバラのものではなくて、一つのものなんですね。だから私たちは心の貧しい者の幸いだけでなく、ここにある一つひとつの幸いをすべて味わうことができる。むしろ、キリストの弟子とは霊において貧しい者であり、悲しむ者であり、柔和な(つまりへりくだった)者である。イエスさまの弟子は義に飢え渇き、あわれみ深く、心のきよい者である。平和をつくり、義のために迫害される、こういう生き方がキリストの弟子の生き方であり、天の御国の者とされた人たちの生き方なんだということですね。天の御国は彼らのものであり、その人たちは慰めを受け、地を受け継ぎ、満ち足り、あわれみを受けると。神を見る、神の子と呼ばれる。だから、イエスさまの弟子は幸いなんだということです。
またこれらの八つの祝福全体に関することでもう一つあるのですが、最初と最後は現在形で書かれ、中の六つは未来形で書かれるという形になっています。それでいて、先ほど言ったように一つのまとまりなんです。つまり、これら一つ一つはすべて現在のことであり、同時に未来のことでもある。そもそも、「神の国」自体が「すでに」と「いまだ」の間にあるのでしたよね。イエスさまが来られたことで神の国、天の御国が到来した。その意味ではすでに来た。しかし、主の祈りで御国が来ますようにと祈るように、天の御国はイエスさまの再臨の時に完成するのです。その意味ではまだ来ていない。それと同じように、私たちの弟子としての生き方も、その祝福も、今すでにそうであり、またやがて完成するのです。何が言いたいかと言うと、山上の説教は「生き方」を教えるので、「生き方」なんて言われると、ともすると「霊において乞食のように神を求める」なんていう次元にはいない自分を責めてしまったり、この後出てくるような「地の塩、世の光」として生きるなんてこととは程遠い自分に落ち込んだり、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることなんて決してできない自分に落ち込んだりということが起こり得ます。しかし、自分の御国の民としての生き方は「すでにといまだ」なんだということを思い出してください。自分はそんな生き方はできない、そんな「幸い」とは無縁だ、そう思えるかもしれません。しかし私たちはすでに「新しい人を着た」のであり(コロサイ3:10)、御霊が私の「内なる人」を強くし続けてくださるのだということを忘れないでください(エペソ4:16)。その意味で、山上の説教は「クリスチャンたる者、ああしなさい、こうしなさい」というようなものではないのです。「生き方の指針」だと言ったことの意味は、キリスト者はこのような生き方へと召されている、私たちはこのような者へと変えられていくという、イエスさまの弟子に与えられた特権なのです。
<心貧しい者の祈り>
そう言ったことを踏まえて、もう一度「心の貧しい者の幸い」に戻りましょう。何箇所か、心の貧しい者の幸いについて他の聖書箇所を開きます。
詩篇69篇32節、33節「心の貧しい人たちよ 見て喜べ。/神を求める者たちよ あなたがたの心を生かせ。/主は 貧しい者に耳を傾け 捕らわれたご自分の民を蔑まれない。」先ほど、聖書を読むときのヒント、コツということで「挟み込み」の技法のことを言いましたが、ここにも別の技法があります。詩篇とか箴言に多いのですが、同じ意味のことばや表現を、二行に分けて繰り返して並べるというものです。32節はまさにそうです。「心の貧しい者たち」と「神を求める者たち」が並べられています。これらは同じ意味なんです。心の貧しさとは、神を求めるということなんです。心の貧しさ、霊の貧しさにおいて、神さまを求め続ける、神さまに尋ね求める、祈りの中で神さまと対話していくことが大切です。神さまは、自分の弱さにがんじがらめになっている私たちを決して見捨てないお方です。心貧しく、霊において貧しく神さまを求めていくなら、貪欲に祈っていくなら、そういう人は天の御国を味わうことになる。つまり、神さまの臨在を見ることになる。主が共にいてくださることを目の当たりにし、喜ぶことになります。
主はその祈りに耳を傾けていてくださるからです。そして、捕われ人をさげすみなさらない。バビロン捕囚は民の偶像礼拝の罪が裁かれてのことでした。イスラエルの民は土地を失い、捕われの身として遠くバビロンの地に連れて行かれました。神さまの約束の地から切り離され、遠いところへ来てしまった。しかし、彼らの祈りもさげすまれることはないのです。私たちも同じです。今どれほど神さまから遠く離れていると思われる現状があっても、神さまを慕い求めるなんて生き方からどれほど遠く離れてしまっていても、それでもそのまま神さまの前に出ていけばいい。そのまま神さまに祈っていけばいい。主は必ずその祈りを聞いていてくださるのです。私たちの心はそうやって守られ、生かされていきます。
私は大学に入って初めて親元を離れて学生寮に入ったときに、しばらく教会に行かなくなった時期がありました。それまでは家族で教会に行くことが当たり前の生活をしていたのに、それがなくなった時に、自分からは行かなくなったのです。それでも寝る前の祈りは続けていたのですが、ある時、祈りながら「あぁ、神さまが遠くへ行ってしまった。」と思ったんです。それは自分にとってすごく大変なことで、そのときの感覚は忘れられないです。今から振り返れば、神さまが遠くへ行ってしまうわけはなくて、自分がそっぽを向いていただけなのですが、でもあの時に祈ったから今があるなと思います。神さまからどんなにそっぽを向いていても、離れていても、それでも神さまが必要ですってその場で祈るなら、祈りの手を伸ばすなら、主は聴いてくださる。答えてくださるんだということを、小さな体験ですが、私も証しすることができます。
もう一つはルカ18章13節、14節です。「13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』 14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
この人は自分を低くして祈りました。まさに霊において乞食であるほどに自分を低くして神さまに祈ったのです。これと対照的だったのは律法の専門家であるパリサイ人で、直前の11節、12節「11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。 12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』」神さまの前に義と認められた、神さまとの正しい関係に入れられたのは取税人の方でした。心貧しく、自分には何もないことを自覚し、だからこそ神さまの恵みにすがりついていくのです。この私をあわれんでくださいと叫んでいくのです。そういう人が神さまとの正しい関係の中にいれられる幸いを得ました。この人も、まさに「心の貧しい者の幸い」を得たのです。
私たちも、この幸いを与えられているのだということを思い出し、そこに立ち返りながら、歩み続けたいと思います。なかなかそういう、神さまを求めるという心持ちになれなくても大丈夫、「すでにといまだ」です。私たちは新しくされているんです。どんなに泥沼の中にいても、あなたを求める思いを与えてください、あなたを仰ぎ見る信仰を与えてくださいと祈っていけばいいのです。それこそが、幸いな生き方、御国に属する者の生き方なんだということです。そうやってイエスの弟子は成長していくのですから。(詩篇69:32〜33)
ーーー
私たちをご自身の弟子として見ていてくださり、その幸いを教えてくださる主イエス・キリストの恵みと、
心貧しく祈る者に豊かに答えてくださる父なる神の愛、
そして幸いな生き方へと私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【3/9】
マタイの福音書4章23節〜25節
「広がる神の国の福音」
引き続き、イエスさまがガリラヤで宣教を開始された様子を見ていきます。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として、イエスさまはガリラヤ地方の全域を巡り、神の国の福音を伝えていかれました。
<23節 ガリラヤ全域>
「イエスはガリラヤ全域を巡り」。繰り返しになりますが、ガリラヤ地方というのはイスラエルの北部、このガリラヤ湖のあたりですね。イエスさまが育たれたナザレ、宣教を開始されたカペナウム、またヨハネの福音書にありますが、結婚式の祝いの席で水をぶどう酒に変えたカナの町はここですね。みな、この辺り、ガリラヤ地方にあります。ガリラヤ全域というくらいですから、あちこちの町や村に出向かれたのでしょう。
聖書に登場する地名は私たちには馴染みがないものばかりなので、どうしてもカタカナの羅列に思えてしまうのですが、私たちと同じような人々がそこに普段の暮らしをしていたのです。小さな子どもたちがいたでしょう。今のような学校の制度はまだありませんでしたが、ユダヤ人の子どもは「会堂」で聖書の勉強をしましたから、それが学校のようなものでした。親たちは子育てに悩みながら、日々の仕事や家事をこなしていたでしょう。彼らの労働環境、職場の環境はどのようなものだったでしょうか。私たちが日々仕事をしながら感じる葛藤や、また喜びを、彼らも同じように感じていたはずです。または、年を重ねて、身体をはじめとして、様々なことが思い通りにいかなくなるということも、しかし人生の悲喜こもごもを重ねたからこそわかるものがあるということも経験していたでしょう。要するに、カタカナの馴染みのない町々ですが、ここに私たちがいる、私がいると思って読んでみると、いやこれは本当にここに私がいると思わざるを得ない。聖書は自分に重ねて読むものです。昔、あそこで書かれたこの古い文書が、今、ここで、新しく私に語りかけてくる。聖霊がそうやって語りかけてくださる。それが聖書です。
ガリラヤは昔から異邦人(外国人)がよく出入りしていた地域で、イエスさまのこの頃には人口の半数以上が異邦人だったという説明もあります。ユダヤ人は選ばれた民族という意識が強いですから、異邦人の多い地域は軽蔑されました。周りの地域から軽蔑されつつ、またそこに住む人たちの中でも、異邦人に対する差別の心は根深いものがあったでしょう。地域の枠組みとしてもう外国人がいなければ成り立たない社会だった。それでいて人々の内には差別の心があった。以前も触れましたが、ガリラヤ地方は農業や漁業が盛んで活気のある地域でした。しかし、その裏側には複雑な民族感情もあったというわけです。まさに、今の私たちを見ているようです。
イエスさまはそのようなところで公生涯を始められました。そこは異邦人の地。聖書が異邦人と言う時には、神さまの約束の外にある人たち、神さまを知らない人たちという意味があります。外国人差別とかそういう意味ではなくて、むしろ本来私たちが神を知らずに生きていた異邦人であるわけですよね。以前も開きましたけれども、エペソ2章11節〜13節「・・・」そして19節「・・・」イエスさまはとことんまで私たちの側に立ち、私たちに寄り添ってくださるお方です。そうやって私たちを、神など知らないで生きてきた私たちを、ご自分に属する者、神の家族としてくださった。飼い葉おけに寝かされて、ナザレで育ったイエスさまは、ガリラヤで宣教を開始されました。神の子である方が、とことんまでへりくだって、文字どおり私たちの間に来てくださったということを、マタイの福音書を読みながら何度も繰り返していますけれども、イエスさまはガリラヤ全土を回られたのだと今朝の箇所は記します。イエスさまは、私のところにも来てくださるということです。あなたのところにも来てくださる。
少し戻りますが、4章15節、16節「・・・」ここの人々は、つまり私たちは、「暗闇の中に」座っていたのです。死の地と死の陰に住んでいたのです。私たちも同じでした。しかしイエスさまが来られたなら、そこに光が昇ります。そして、私たちはすでにイエスさまにお会いしている。光はすでに昇ったのです。そのことを忘れないでいてください。
<会堂で教えながら>
さて、イエスさまが何をしながらガリラヤ全域を巡られたかというと、三つのことがわかります。「会堂で教えながら」、「御国の福音を宣べ伝えながら」、そして「人々を癒しながら」、ガリラヤ全域を巡られたということになります。一つ一つ見ていきたいと思います。
まずは会堂について。ユダヤ人たちの会堂をシナゴーグと言います。バビロン捕囚で神殿が破壊されてから、ユダヤ人の礼拝は神殿でいけにえをささげることから、聖書の教え(律法)を学ぶことへ力点が移っていきました。その後、ユダヤ人は世界中に離散していくことになりますが、行く先々で会堂(シナゴーグ)を建て、自分たちの生活の基盤としました。2000年近く国土を離れて世界中に離散してもなお、ユダヤ人がそのアイデンティティーを保つことが出来たのは、聖書のことばがあったから。かつ、それを共に読み、互いに励まし合う共同体があったからです。そして、その生活の中心にあったのが会堂(シナゴーグ)でした。先ほども少し触れましたが、子どもたちはここで聖書を学びました。大人もこの会堂を祈りの家(ベイト・ハ・テフィラー)として、学びの家(ベイト・ハ・ミドゥラーシュ)として用いたのです。安息日には礼拝が持たれました。クリスチャンが日曜日に集まって礼拝をすることの起源はここにあります(ユダヤ人の安息日は土曜日ですけれども)。そしてそこでは、大人の男性であれば聖書を読み、簡単なメッセージを取り次ぐことも出来ました。会堂で「教えた」とありましたが、会堂はみことばの真理を教える場所でした。祈る場所であり、そして教える場所であったのです。先週、教会とは聖書の内容をただ教える場所ではないと言いました。ただ知識を得るためだけの場所ではない。シナゴーグもそうでした。聖書を教える場所、教えてもらう場所なわけですが、それはただ知識を増やすためではないのです。そこで得た知識を、生活の中で、人生を通して知恵深く用いていく。ただ頭の中だけの知識ではなくて、生き方として、知恵としてそれを生かしていく。私たちも、そのために聖書を学び続けるのです。
なお、マタイの福音書では省略されていますが、イエスさまはガリラヤに戻った時にまずナザレに行っておられます。13節、しかしナザレを去ってカペナウムに来たという流れです。この時ナザレで何があったかというと、ルカの福音書に書いてあるんです。イエスさまは自分が育った町ナザレの会堂で「いつものとおりに」説教をされました。イエスさまはナザレの会堂つきのラビではありません。しかし、そこのメンバーとして、いつも礼拝の場で聖書を朗読し、聖書の話もしていた。しかしナザレの人たちはイエスさまを追い出し、イエスさまはカペナウムに移られたという流れなのでした。【※ルカ4:14〜16, 23を読むと、ナザレの前にまずカペナウムということだったようです。訂正します。イエスさまはナザレの会堂で「いつものように」語られたという論旨は変わりません。】
さて、話を会堂に戻します。彼らにとって会堂はそのように信仰生活の基盤となる場所でした。では、私たちはどうでしょうか。関西集会には決まった礼拝の場所はありません。公共の会議室を借りたり、ホテルの会議室を借りたりしています。振り返ってみると、初代教会と言われる人たちもそうでした。彼らも会堂を持たず、メンバーの家に集まって礼拝を捧げました。中国の家の教会も有名ですね。久遠教会自体、はじめは丹羽先生の家庭集会、家の教会でした。自前の会堂があれば、大きな会堂があればあれができる、これができると考えることは多いのですが、会堂を持たないことのメリットもまたあります。社会の状況を見ても、不動産や大きな資産を持たずにレンタルでというのは当然考えられるあり方です。経済的に右肩上がりだった頃は、キリスト教会も同じ時代の空気の中にありますから、会堂を建てるということがゴールになりがちでしたけれども、今はむしろ建物よりもその中身、そこに集う人々のつながり、交わりをどう強く保つかというところが意識されている、そういう時代ですね。イエスさまは会堂を大切にされたから、私たちも会堂を持つべきだという簡単な話ではなくて、逆に、今の時代は会堂のようなものは持たない方がいいのだという話でもなくて、どちらにせよ、大切なことは会堂のあるなしではなく、教会の本質をどう保っていくかということでしょうね。私たちは自前の会堂を持っておりません。であるならば、どうすれば生活の中心としての礼拝を意識できるでしょう。互いに祈り、信仰を伝え、神の民としてのアイデンティティーを確認していくことができるでしょうか。そのことを考えていきたいのです。礼拝も、午後の交わりも、礼拝に来られなかった方のためにメッセージを配信しているのも、教会だよりを作っているのも、そのことを意識してのことです。よりよいあり方のために、ぜひ声を聞かせてください。イエスさまは会堂で教えながらガリラヤを巡られました。私たちの小さな群れのところにも来てくださいます。来てくださるといいますか、教会はキリストのからだです。ここにはイエスさまがおられるんです。誇りをもってこの教会をとらえていきたいですし、今日、ここに主がおられる。そのことを信じていきましょう。
<御国の福音を宣べ伝えながら>
次に、イエスさまが「御国の福音を宣べ伝えながら」ガリラヤ巡りをされたということですが、「御国の福音」、これはイエスさまが宣教を開始された時のことばを思い出させます。4章17節です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」天の御国、神の国です。特定の場所のことではなく、神さまの支配、神さまの御心があらわされるところ。そのご計画が実行されるところのことですね。イエスさまはそこの王。まことの王なんです。この方は私たちのために命を捨てるお方です。私たちもその十字架で共に死んだ。そして、私たちはこの方と共に復活の命を、新しい生き方をすることができる。それが福音なんです。福音とは良い知らせのことです。ユーアンゲリオンと言って、当時は皇帝がやってくるという知らせ、皇帝が戦争に勝ったという知らせ、そのような良い知らせのことを指しました。しかし、聖書を記した人々はそのユーアンゲリオンということばをもって、皇帝ではなくイエス・キリストの到来を告げました。神の国の到来を表現したんです。聖霊がそのように促されたわけですが、神の国の到来、イエス・キリストの到来、それこそが本当に真の意味で良い知らせだったからです。死んだ後にあの世としての天国に行けるというだけではなくて、今も、私たちはすでに神の国にいます。死んでからだけじゃない、だから今はどうでもいいんじゃない、今も、新しい生き方が出来るのです。私たちはすでに「新しい人を着ている」からです(コロサイ3:10)。私たちは自分自身では変われません。この性格が変わりさえすればとどれほど願っても、自分で自分を変えることはできません。しかし、私たちのうわべが変わらなくても、神さまの永遠の視点で見れば私たちはやがて神さまの満ち満ちたさまにまで成長し、聖化が完成することを聖書は教えています。だから「そこに」希望を置いて、かといって古い自分に胡坐をかくのではなく、自分自身を十字架に明け渡し続けながら、つまり日々悔い改めて歩んでいくことが大事です。悔改めなさいとイエスさまは言われましたが、それは悔い改め続ける、悔い改めながら歩むということです。何が出来た、出来なかった、クリスチャンとしてこういうことができた、できなかったという「結果」を見て一喜一憂するのではなく、その時その時、神さまを見上げて歩んでいくこと。上手くいく時も、上手くいかない時も、あきらめないで神さまを見上げて歩み続けることが大切です。聖書の登場人物たちはみなそうでした。それこそが永遠のいのちであり、神の国の者としての生き方なんです。福音とはそういう生き方に招かれていますよという知らせなんです。
日々の生活を振り返って、どうでしょう、私たちは神の国、天の御国の民として歩んでいるのでしょうか?繰り返しますが、それはクリスチャンらしくするとか、柔和でいるとか、親切であるということを直接指すというよりも、それらも大事なことかもしれませんが、それらが出来ない自分であっても、なんとか神さまが喜ばれるような生き方をしたいと願い、祈り続け、失敗を繰り返しながらでもそのことをあきらめない。それこそが大事なんです。「悔い改めなさい」というのは、悔い改め続けなさいという意味です。ギリシャ語の現在形には、現在進行形の意味が含まれます。門をたたき続けなさい、探し続けなさい、そして、悔い改め続けなさいということです。出来るかできないかと言われれば、私たちは神さまを喜ばせる生き方なんてできないわけです。じゃあ新しい生き方とは何か、新しい人を着たとはどういうことかと言えば、どんなに凸凹であっても、神さまと共に歩み続けること。私たちの罪そのものとして十字架にかかられたお方、そして復活して今も私たちと共にいてくださるお方と共に歩み続ける。そのことなんです。そういう生き方に私たちは招かれている。
この良い知らせを「宣べ伝えながら」、イエスさまはガリラヤを巡られました。この良い知らせを人々に届ける。それが宣教です。どんな形であっても。直接神さまのことを話せなくても、あなたを見ていると、軽やかな生き方で、自分に固執していないで、うらやましいと言われるようならしめたものです。そこで「聖書を読んでるからかも」なんて言えたらさらに一歩前進ですよね。何が一番人の心に響くかと言えば、カミが、ツミが、という話ではなくて、生身の人間の生き方です。最初に言ったように、ガリラヤ全土で。私たちが生きて生活しているこの身の周りで、私たちは御国の福音の証びとになりたい。ほんの少しでもいいから、そうやって私たちを通して御国の福音が広がったらと願います。そんなあなたにイエスさまは声を掛けてくださいます。19節「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」イエスさまはこう言って私たちに声をかけてくださる。イエスさまがそう見ていてくださるんですから、このみことばはそのまま実現するんです。そのことを信じていきましょう。
<癒し>
三点目ですけれども、イエスさまはガリラヤ全域を巡りながら、「あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒され」ました。イエスさまは癒し主。病を癒してくださるお方です。イエスさまがあらゆる病気を癒されたことは福音書によく描かれています。24節にはてんかんや中風などの病名も出ていますが、あらゆる病気を癒されました。病気の原因は肉体的なものだけでなく、社会的な貧困や貧しさと関連していることありましたし、何よりも罪が原因だとして、共同体の中から立ち切られてしまう、社会的に抹殺されてしまうこともありました。また悪霊に憑かれた人というのも出てきますね。悪魔や悪霊というのは確かに存在しているので、オカルトにはまってしまって悪霊にやられてしまうことが今もあります。しかし、それすらもイエスさまは癒してくださいます。イエスさまの癒しは、ただ病の癒しということを越えて、それは、イエスさまのメッセージが真理であることの証拠であり(ヨハネ14:11)、イエスさまが待ち望まれていたメシアであることのしるしであり(マタイ11:2-6)、神の国が始まっていることの確証なのです(9:35)。
ところで、今日、神さまは通常は医療を通して、薬を用いてそれを現わしてくださいます。私は喘息で内科に行ったり、アトピーで皮膚科に行ったりして、そこで薬をいただくわけですが、お医者さんなど医療に従事される方々、薬剤師さんら薬を調合してくださる方々というのは、本当に有難い存在で、感謝しなければならないなと思わされます。その上で、それらの薬が身体の中でどのように溶けて、吸収されていくか、それが病に対してどう効果を現わしていくか、そのプロセスは神さまの領域ですね。鍼に行ったり、教えてもらって自分でお灸をしたりもするんです。お灸をすると古傷の痛みが緩和されます。西洋医学と東洋医学の良いとこどりでいこうと思っているんですが、薬にせよお灸にせよ、私の身体がそれに応えて改善していっている、それは神さまの癒しのみわざです。神さまはお医者さんたちを用いて、薬を用いて、私たちに癒しを与えてくださる。
しかし、そうでない時というのもまたある。医療では治せないものがある。進行性が速かったり、出来る部位が特殊な癌などです。神さまは全能のお方ではなかったのか。いかに人間の医療に限界があろうとも、神さまがそれを用いられるのならば、癒されないはずがなかったのではないか。その問いが終わることはないでしょう。私たちがどれほど願っても、祈っても、癒されないことがある。パウロもそうでした(Ⅱコリント12:7-9)。また、ヨブのことも思い出します。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」を告白したヨブの姿です(ヨブ1:21)。
ただこれは、癒しを求めて祈ることもまあほどほどにしておけばよいという意味では決してありません。そんな諦めの境地は神さまとの人格的な関わりではありません。私たちは祈り続ける。癒してくださいとあきらめないで祈り続けます。神さまに泣きついて、食らいついて、「祝福してくださるまで離しません!」と言ったヤコブのように、私たちは祈り続けるのです(創世記32:26)。その先のことは神さまの領域だということです。
<福音の広がり>
最後に24、25節ですが、イエスさまの噂は「シリヤ全体」に広がったとあります。イスラエルの国境を越えてシリアにまで、ということではなく、あくまでもイスラエルの中でのことなので、シリアに近い北部、つまりガリラヤよりもさらに北の地域のことでしょう。
さらに25節を見ると、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ地方、及びヨルダンの川向うからとあります。以前、ヨルダンの向う岸というのはヨルダンの西側のことだと言いました。イスラエルの民が東からヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったからです。その理解でいいのだと思うのですが、ここではこのほかにガリラヤや、エルサレム、ユダヤも名前を挙げていますよね。デカポリスまで含めて、これはもう全国にイエスさまのうわさが広まったということを表現していいますから、この「ヨルダンの向う岸」というのはもしかしたら東側のペレアのことかもしれません。まあ、どちらにしてもイスラエルの国中からということです。イエスさまはこの時ガリラヤで宣教しておられます。ガリラヤの町々を巡っておられます。しかし、その噂は広く全国に広がっていったのですね。そして全国各地から人々が集まってきたのでした。福音には力があります。まことの王がおられる。その方が私たちのために十字架にかかり、よみがえって私たちを罪の力から解放してくださった。もうあらゆる生きづらさにおびえる必要はない。私たちは罪から解放された者として生きていくことが出来るという、この福音には力があります。御国の福音を携えて、私たちも出ていきましょう。私たちにとってのガリラヤ中に、自分の生活領域のあちこちに出ていきましょう。そこで何らかの形で福音の証をしたい。聖霊なる神さまに助けを求めましょう。そうやってこの福音はここまで広がってきたのだということを思い出しつつ、今日も、今週も、福音の証人として立たせていただきましょう。主がそう見てくださるから。私たちは懸命に、丁寧に、日々の暮らしを送っていこうではありませんか。(イザヤ9:2)
ーーー
御国の福音を携えて私たちのところに来てくださった、主イエス・キリストの恵みと、
「わたしは主。あなたを癒す者である」と言ってくださる父なる神の愛、
そして、福音の広がりのために私たちを用いてくださる聖霊の満たしと祝福が、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【3/2】
マタイの福音書4章18節〜22節
「わたしについて来なさい」
イエスさまがガリラヤで宣教を始められた時、その第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」というものでした。「天の国(神の国)」とは神さまが支配する場所というよりも、神さまの支配そのものを指すことばです。エデンの園で完璧にあらわされていた神さまの支配、神さまの臨在ということですね。それが人の罪で崩されてしまって、それ以降は、神さまの側から神の国を回復させるための働きかけをしてきてくださった、その長い歴史が聖書の内容となっているのでした。そして、イエスさまが来られてその活動を公に始められた時、神の国が近づいた。ニュアンスとしては「神の国がいよいよ到来した」ということですが、だから悔い改めて、神さまの方を向き直しなさい。何度でも悔い改めて、神の臨在と共に、神のご支配の中で生きなさい。そうやってイエスさまが語り始めた、動き始めた。活動を開始されたことを先週読みました。「悔い改めなさい。」と主は言われます。信仰歴の長さは関係ありません。私たちは何度でも悔い改めなければなりません。そうやって私たちはイエスさまの臨在の中で、主と共に生きる。イエスさまについていく、従っていくことが出来ます。それが、神の民、神の国の民だということになる。
さて、イエスさまが来られて神の国が到来しましたが、十字架にかかった後よみがえられたイエスさまは天に戻られました。やがてまた戻って来られますが、それまでの間、この地上で神の国の管理を任されているのはキリストの弟子たち。神の国の民なんです。聖霊はそのための助け主です。イエスさまは、ご自身に従う者たちを求めておられる。神の国の管理を任せるために。だから弟子を選び、訓練されます(ヨハネ15:16)。十二弟子から始まって、今は私たちが主の弟子です。神の民です。そのことを考えると、今日の箇所は私たちにとって、とても大切な場面になります。最初の弟子の召命の場面ですが、召命とは呼び出されて使命を与えられるということですね。私たちもイエスさまの弟子として、どのような使命が与えられているのか、確認していきたいと思います。
<18節>
イエスさまはガリラヤ湖の岸辺を歩いておられました。ガリラヤ湖というのは位置としてはここです(地図)。

南北に20km、東西に14kmほどの淡水湖です。大きさのイメージとしては琵琶湖の1/3くらいでしょうか。北の方に、イエスさまが今おられるカペナウムの町があります(13節)。ガリラヤ湖というのは、北の方から流れてくる川がヨルダン川として南から抜けていくので、水に動きがあって魚がよく獲れる、よい漁場なのだそうです。インターネット上から写真を拾ってきましたが(写真)、海抜がマイナス212mということで、世界で二番目に低い位置にある湖だとか。ちなみに世界一海抜が低い湖は死海で、マイナス430m。この辺は湖云々をなしにしても世界一低い土地になります。そんなガリラヤ湖ですから、周りを山に囲まれた盆地の底に位置しているので、突風が吹いたり嵐になることもあるということのようですね。ガリラヤ湖では漁業が盛んだったことは先週も触れましたが、ここで獲れた魚は塩漬けにしてローマまで輸出され、魚の油はランプのために、また薬としても用いられていました。

そんなガリラヤ湖の湖畔をイエスさまは歩いておられました。そこで二人の漁師が岸に近いところで漁をしているのをご覧になります。彼らが「網を打っていた」というのは、投げ網式の漁をしていたということです。これまたどなたかの写真ですが、こうやって網を投げるわけですね(写真)。

<イエスさまの呼び声>
岸辺に近いところだっただろうとは言え、岸辺と舟の間にはそれなりの距離があります。イエスさまは大声で呼ばれたはずです。「わたしについて来なさい!人間をとる漁師にしてあげよう!」イエスさまが弟子を呼ばれる時には、はっきりわかるように呼んでくださるんですね。いつも大声とは限りませんけれども。例えばこの福音書を書いたマタイ本人がイエスさまと出会った時のことが9章9節にありますが、そこでは町の中で収税所に座っていたところに声をかけられているので、湖でのような大声ではなかったでしょう。しかし、マタイにはっきりわかるように声をかけられたわけです。人それぞれに。聞きやすいように。分かりやすいように。イエスさまは私たちにも、はっきりわかるように声をかけてくださいます。
しかも、働いている最中に、つまり、やるべきことをなし、誠実に日々の生活を送っている只中で声をかけてくださるのです。キリストの弟子というと、何か大きな事を達成できてからとか、何か信仰的に立派な人物になってからというように考えてしまうかもしれませんが、そうじゃない。今、私たちがそれぞれの生活の現場で、普段の生活を丁寧に送り、そこで起こる一つ一つの事に向き合っていることが大切です。ペテロとアンデレは網を打っている時、そして21節ではヤコブとヨハネが網を繕っている時に、彼らは主から呼ばれました。
私たちはいつ呼ばれるのでしょう。まずは、すでに、イエスさまを信じた時にイエスさまから呼ばれたということができます。だからイエスさまを信じることができました。イエスさまを信じる事は、イエスさまの弟子となるという事です。お試し期間とか、信じはするけど従わないというのはあり得ないんです。イエスさまを信じるとは、イエスさまの弟子となる事です。私たちはすでにイエスさまから呼ばれ、弟子として生かされています。
その上で、主は改めて、もう一度私たちを呼ばれます。イエスさまのことを三度も知らないと言ってしまったペテロに対して、「ヨハネの子シモン」と呼びかけられた。「あなたはわたしを愛していますか」と三度言われた。「わたしの羊を飼いなさい」と。もう一度弟子としての生き方を再確認し、その使命を与えてくださったわけですね(ヨハネ21:15-17)。イエスさまを信じた時にイエスさまから呼ばれたことと、そしてもう一度呼ばれるということがある。預言者イザヤもそう。「だれをわたしは遣わそう」という神さまのことばに応答して「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言ったのも、そのように神さまから呼びかけられたから。神さまに従う生き方を問われたからですね(イザヤ6:8)。私たちは、イエスさまを信じた時点とは違う時に、イエスさまから呼ばれることがある。それは弟子としての生き方の再確認であり、もしくは新しい道を示されるという時もあるでしょう。何か仕事として、役割として、神さまにお仕えする職業に就くということだけではありません。みことばに聞き従うように、神さまの御心に従うようにと、それがキリストの弟子の生き方だと迫って来られます。日々の生活を丁寧に送りつつ、そこで聞こえてくる神さまの御声。それは私たちに、神さまのみことばに従う生き方を迫ります。聞き逃す事がないようにしたいと思います。
<「わたしについて来なさい」>
さて、ここでイエスさまが言われたことばの内容ですが、19節「わたしについて来なさい」、これはただ一緒について来なさいという軽いものではなくて、ユダヤ人の文化にあっては「これからの歩みのすべてをわたしにかけ、わたしと行動を共にせよ」というニュアンスの招きだそうです。招きと言っても、もう断る余地はないような、選択の余地はないような、力強いものでした。クリスチャンになるとは、イエスさまの弟子となるとは、これからの歩みのすべてをイエスさまにかけること。イエスさまと共に行動することなんです。そして、大切なことは私たちの側で師匠となるべき人を品定めして選んだのではなく、イエスさまの側で私たちを選び、信頼し、任命してくださったということです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)私たちの信仰の根拠、私たちの献身の根拠は、私たちの側にではなく、主の側にあるのだということ、だから安心してついていけばいいのだということを確認したいと思います。
イエスさまが弟子をとる理由、それは初めに少し触れましたが、広がって行く神の国の管理を任せるためでした。神の国は、イエスさまが天から命令一つで自動的に広げるのではなく、神の民一人ひとりを通して広げられていきます。イエスさまは天に戻られ、敢えて地上の神の国を私たちにゆだねられました。ゆだねたと言っても、その主権はイエスさまにあり、神の国が広がるのも完成するのもイエスさまによります。しかし、地上において神の国を広げていく、深めていく、その働きは、何と私たち人にゆだねられました。教会はそのためにあります。日本語で「教会」と言うと「教える場所」、授業のような「講義をする場所」というイメージが強いと思います。でも、教会の存在意義ってそういうことじゃないんですよね。聖書に書いてあることを教える場所、教えられる場所、それはもちろん大事なことなのですが、むしろ教会とは、神の民とは、イエスさまの弟子たちの集まりなんです。人間の集まり、罪人の集まりですから完璧な教会はありません。私たちの目から見れば、なぜ神さまはこんな非効率な方法で神の国を管理なさるのか、不思議です。しかし、教会は神の民の集まり。イエスさまの弟子たちの集まりなんです。そのかしらはイエスさまです。イエスさまがそうされたんですから、私たちはついていくのみなんです。神さまの方法で、神さまのスピードで、神の国は広がって行きます。私たちを通して、何と驚くべきことに、それは広がって行くのだということです。
<人間をとる漁師>
そしてこの「人間をとる漁師にしてあげよう」ということば、これはもちろん、漁師が魚をとるように人々を漁る(すなどる)、神の国の中に人々を招き入れるということのたとえで言われているわけです。人々に神の国の福音を伝え、そしてその中に招き入れる、つまり宣教の働きですね。人は誰かに伝えてもらわなければ、福音を知ることはできません。誰かが伝えなければ、福音が広がっていくことはありません。福音は伝えられ、伝えられ、広がり続けてきたのです(コロサイ1:6)。宣教は神の国にとって、とても大切なことです。それがここで、「漁師」ということばで例えられたということがまた意義深いと思われます。ペテロたちは文字通りの漁師でしたから、これはペテロたちの生き方、それまでの経験、培ったもの、それらが用いられるということだと思うのです。働きの場所は湖から陸へと移りますし、相手にするのも魚ではなく人間になりますから、それまで経験してきたことがそのまま生かされるかと言えば、まったく同じようにはいきません。しかし、何らかの形で用いられる。それは主が用いてくださるのです。私たちも、自分に与えられているもの、経験であったり、知見であったり、技術であったり、人間関係であったり、そういったすべてのものが総動員されて、これからは神の国のためにそれらが用いられるようになるのです。
<自分を捨てて従う>
しかし同時に、20節にはこういう表現もある。「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」網を捨てる。イエスさまに従うために、ある意味では、それまでのものを捨てる覚悟が必要です。22節では、ヤコブとヨハネが舟も父も残してイエスに従ったとあります。ある意味では、それまでのものを断ち切っていく覚悟が要る。でも、それはこれまでのものがまったく生かされなくなるということではないんです。家も家族も捨てて、世捨て人のように暮らせという事でもありません。周りとの関係を一切捨てて、すべて切り離していくなら、どうやって地の塩、世の光であることができましょう。マタイ10:37はショッキングなみことばがあって、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」とあるわけですが、これは二つのものを比べる時に、こちらを愛するなら、こちらは憎むという言い方をする、あえて極端な言い方をするユダヤ的な表現だそうです。こちらを愛するなら、こちらは憎むとまであえて言い切るんですね。でもそれは、もう片方は切り捨てるという意味ではないんです。実際、ペテロは弟子としてイエスさまに従い出してからも、家族を捨てたわけではありませんでした。自分の家にイエスさまを招き、自分のしゅうとめがイエスさまをもてなすという場面がありますし(8:14)、その後も家族関係を維持しています(Ⅰコリント9:5)。関係をシャットアウトしろという意味ではないんです。それを強要するのはカルト宗教です。
では、「捨てる」とはどういうことか。彼らにとって「網」とは生活そのものでした。自分自身だった、自分の命を保つためのものだったわけです。つまり、これは自分を捨てるということです。ヤコブとヨハネは「舟も父も残して」イエスさまに従いました。これも、同じです。それまでの自分の当たり前の生活をイエスさまにあって一度手放したということですね。自分を捨てて、イエスさまについていく。気になるあのこと、このことはイエスさまにお任せして、お委ねして、みことばが語るところに、みことばの招きに応答していく。自分の癖や判断ではなくて、みことばに従っていくのです。それが自分を捨てるということです。イエスさまに従うために自分を捨てる者は、かえって本当の自分を得ることになります。イエスさまに従うために自分を捨てる者は、かえって本当の自分を得ることになる。マタイ16章24節〜25節「24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。 25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」自分を捨てるとは、自分のこだわりを捨て、自分の癖を捨てて、みことばが語るところにこだわって生きていくということです。自分の十字架を負うとは、イエスさまと共に十字架で死んだのだという信仰を徹底していくこと。イエスさまの十字架が自分の十字架です。キリストと共に十字架につけられ、共に死に、しかし今は共に復活のいのちで生きているのだという信仰です。そうやってイエスさまと一つになって、従っていく。古い自分は捨てるんです。先ほど、自分のそれまでの経験や知識が生かされるということを言いましたが、古い自分は捨てていく。自分の古い肉は捨てていく。そうすると、自分の過去の経験や知見、知識、技術は、イエスさまにあって新しいものになる。神さまのものとなる、神さまのものとして贖われる。救いとはそういう全体的なものです。ここは重要なポイントです。救いとは自分の心の中が平安になるということだけではなくて、自分の経験も、技術も、すべて、過去の痛みすら、傷すら、神さまにあって新しい意味が与えられるということです。これが救いですよ。イエスさまのために自分のいのちを失う者はかえって本当のいのちを見出すのだ、ということです。
私たちは古い自分を捨てられずに、捨てたと思ってもまだまだ、いつまで経っても古い自分に悩まされるのですが、だからこそ、何度でも、古い自分はイエスさまの十字架で死んだのだということを確認し、そして今私は、復活の主と共に新しく生かされているのだということを心に刻みましょう(ローマ8:11)。
<弟子として召しだされたのは>
私たちがキリストの弟子として召しだされたのは、自分を捨てて、イエスさまと一つとなって生きていくという生き方に私たちが召しだされたのは、人間をとる漁師になるためです。「人間をとる」という表現は、彼らが漁師だったから。では、私たちはと言えば、どのような表現になるでしょうか。「人間をとるサラリーマン」「人間をとる主婦」というのはちょっとおかしいというか、「とる」っていうのは漁師だからそう言われたのでしょうから、私たちにとっては、何が弟子としての生き方になるか、考えてみたらいいと思うんです。もちろん、宣教という視点が大事です。ただそれを「人間をとる」とは違う表現で、つまり私自身のこととして、自分事として腹に落とし込みたいなぁと思います。今ある自分が活かされる。これまで培ってきた様々な経験が活かされる。むしろ、主にあって、新しいものとして活かされる。そこで自分自身が人々に仕える、他者に仕えていく、そこに神の国が広がって行く、福音が広がって行く、それがキリストの弟子だと思うんです。「人間をとる漁師」という表現を、自分に置き換えてみていただきたいのです。ここには漁師の方はいらっしゃらないですよね。漁師の方はこのみことばを理解しやすいでしょうから、うらやましいと思います。ご自分にとっては、人間をとる漁師とは何を意味するのか。考えていただきたいのです。仕事はリタイアされた方々も多くおられますが、「キリストの弟子としての高齢者」とは、ではどういう生き方なんだろう。追い求めていただきたいのです。キリストの弟子として召されていない人はいませんので、私たち全員が、このことを自分のこととして、祈りの中で神さまと語らいながら、答えをいただいていくことが大事だと思います。その時、「わたしがあなたがたを選んだのは、あなたがたが行って、豊かに実を結ぶため」というイエスさまのことばの意味を目の当たりにすることになります(ヨハネ15:16)。イエスさまは言われます、「わたしについてきなさい。」と。今日、また、新しく、私たちは自分を捨て、イエスさまについていく、イエスさまに従い直していく、自分が今置かれている場所で、キリストの弟子として生き直していくことを、今日、またここから、新しく始めていこうではありませんか。イエスさまが呼んでおられるのですから。(イザヤ6:8)
ーーー
私たちに声をかけ、弟子として導き続けてくださる主イエス・キリストの恵みと
私たちを通してご自身の国を表していかれる、父なる神の愛、
そして弟子としての生き方を日々再確認させてくださる聖霊の満たしと励ましが
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【2/23】
マタイ4章12節〜17節
「天の御国が近づいたから」
マタイの福音書の続きになります。イエスさまはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、荒野で四十日の断食をして父なる神に祈る時を持たれました。その後、悪魔がやってきてイエスさまを誘惑します。それは十字架を経なくてもいいようにするための誘惑でしたが、イエスさまは神のことば、聖書のことばによって悪魔の誘惑を撃退されたのでした。それは私たちにとって、神のことばを思い出しながら生きていく手本です。
さて、今日はその続きです。12節「イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた」とあります。バプテスマのヨハネはヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスに捕えられます。それはヘロデが自分の異母兄弟の妻を自分のものとしたということを、このバプテスマのヨハネが激しく糾弾していたからでした(そのことは後々、マタイの14章に出てきます。14:1-5)。うるさいことを言うやつを捕えて牢に入れてやったというわけで、彼が父親譲りの暴君だったことが伺えます。ヘロデは危険でした。だからイエスさまもそこを離れたということでしょうか。しかし、実はガリラヤもヘロデ・アンティパスの領土なのです。ヘロデ大王の死後、イスラエルは四分割され、三人の息子たちとヘロデの妹がそれぞれの領主となりました。三人の息子たちの国土が広く力もあったわけですが、ヘロデ・アンティパスはそのうちの一人で、ヨハネの洗礼場に面したペレア、そしてガリラヤが彼の領土だったのです(★地図)。退いた先もヘロデの領土なのであれば、逃れるということではあまり意味をなしていません。「退かれた」とは、ヘロデから逃げたという意味ではなくて、ヨハネからバプテスマを受けるためにペレアやユダヤの方に来ていたけれども、今やいよいよ公に働きを始める場所、ガリラヤに移動されたというところに力点があるのです。今や、いよいよ、イエスさまは公に活動を開始されるのです。

ガリラヤというのは北部ガリラヤ湖の辺りですね。異邦人(外国人)もよく出入りしていた場所で、ユダヤ人たちからは軽蔑されていた土地でした。外国と隣り合っていたので絶えず侵略を受けてきた地域であり、また紀元前八世紀にはアッシリアに占領されて多くの人が捕らえ移され(Ⅱ列王15:29)、アッシリア人が移住してきたということもあり、この頃には人口の半数以上が異邦人だったようです。ユダヤ人は選ばれた民族という意識が強いですから、異邦人、外国人の多い地域は軽蔑されていたのです(ヨハネ7:52)。
イエスさまがガリラヤで活動を始められることは、14節以降にありますけれども、預言者イザヤを通して預言されていました。「ゼブルンの地とナフタリの地」というのは、この辺りは12部族の割り当て地としては、ゼブルン族やナフタリ族の土地だったからです。「海沿いの道」の海というのはガリラヤ湖のことですね。この辺りは土地も肥沃で農業が盛んです。また何と言ってもガリラヤ湖には漁業があります。ここで採れた魚は塩漬けにされてローマにまで出荷されていきました。「海沿いの道」という表現からはそんな土地柄がうかがえます。「ヨルダンの川向こう」というのは、イスラエルの民はヨルダン川の東側からカナンの地に入りましたから、ヨルダン川の西側のことを「ヨルダンの向う岸」とよく表現しました。ゼブルンとナフタリの地、ガリラヤ湖に沿った、ヨルダンの向う岸、しかしそこは異邦人のガリラヤと呼ばれる場所です。エルサレムの神殿からは遠く離れ、商業は盛んだったかもしれませんが、宗教面では遅れを取っていた場所でした。
しかし、イエスさまはそういうところで公生涯を始められました。そこは異邦人の地。聖書が異邦人と言う時には、神さまの約束の外にある人たち、神さまを知らない人たちという意味があります。今の時代の感覚で「外国人差別」などという話ではなくて、神など知らないで生きてきた私たちをご自分に属する者としてくださったというところに聖書の強調点があります(エペソ2:11-13, 19)。飼い葉おけに寝かされて、ナザレで育ったイエスさまは、ガリラヤで宣教を開始されました。神の子だというのなら、エルサレムの神殿で、華々しく始めればよかったのではないか。しかし、イエスさまはとことんまでへりくだって、文字どおり私たちの間に来てくださったということが今日の箇所からもわかります。
イザヤがもともと預言した文脈をみるとまた理解が深まりますので、イザヤ書9章を開いてみましょう。8章22節から。「彼が地を見ると、見よ、苦難と暗闇、苦悩の闇、暗黒、追放された者。」まさに私たちではないですか。苦難の中にない人などいない。苦悩していない人などいない。しかし、9章1節「苦しみのあった所に闇がなくなる。」そして先ほどの預言が始まるのです。2節までがマタイに引用されています。一字一句正確な引用になっていないのは、翻訳の問題であったり、またヘブル語ではなくギリシャ語の旧約聖書、つまり七十人訳聖書をマタイが使っていたということ、もしくはマタイが覚えているままに自由に引用したということかもしれません。「闇の中を歩んでいた民は/大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に/光が輝く。」イザヤは続けます、6節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。/ひとりの男の子が私たちに与えられる。」そして、その通りになりました。救い主は、イエスさまは来られました。そして、異邦人のガリラヤで語りかけてくださる。私たちもすでに神の子とされながら、いまだに古い人を引きずっているような、身体の中の半分は神さまのことを知っていて、もう半分は神さまのことを知らない生き方を続けているような、異邦人の生き方を続けているような私たちですけれども、でもそんな場所にイエスさまは来てくださっているのです。そして、私たちは主のものとされているのです。何度でもそのことを思い出しながら歩んでまいりましょう。
<17節 一本の流れ>
マタイの福音書に戻ります。17節、イエスさまの公生涯の第一声、宣教の第一声は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」というものでした。すでに触れたように、これはバプテスマのヨハネが言っていたこととまったく同じものです(3:2)。他の福音書では違うことば・違う表現だったりするので、これはマタイが意図的にこのことばを並べていることが分かります。バプテスマのヨハネ、イエスさま、そして10章7節でイエスさまの弟子たちが派遣される際にも「天の御国が近づいたから」と同じメッセージが託されたことが記されています。「天の御国が近づいた」という一本の流れ、一貫性をマタイは強く意識しているようです。バプテスマのヨハネは旧約最後の預言者とも言われます。そこからイエスさま、そして弟子たち、そして私たちへと。神さまは一貫して同じメッセージを語りかけ、働きかけてくださる。私たちをもそのご計画において用いてくださいます。
イエスさまはヨハネ同様に「悔い改めなさい。」とも言われたわけですが、悔い改めとは罪を犯したことをただ悔やむという意味ではなくて、向きを変えることだという話を以前しました。各々、自分の生き方の向きを変えなさい。罪を離れ、具体的に生き方を変えなさいと。そうやってイエスさまに出会うことができるんですよね。何度でも出会い直していくのです。以前お話しした通りです。その上で今日は、「天の御国が近づいたから」という、ここを掘り下げてみたいと思います。これらは別のことではなくて、つながった一つのことではありますが。
<天の御国>
「天の御国」とは、他の福音書では「神の国」となっています。神の国。マタイはユダヤ人向けにこの福音書を書いているので、神さまの名前を直接言わないユダヤ人に配慮して、「神」とは言わずに「天」と言っていますが、どちらも同じ内容です。では天の御国、神の国とは何か。普通、国と言えば領土、国土を意味します。しかし、聖書が国というとき、それはまず第一に「統治」であり「支配」なんですね。名詞と言うよりも動詞的な意味が強い。神さまが支配しておられる場所というよりも、神さまが支配しておられる、統治しておられる、そのこと自体を「国」と表現します。別の言い方をするなら「神が共にいてくださるということ」自体のことですので、ある特定の場所のことではありません。また死んだ後に行く天国というのも、それだけが神の国の正確な描写ではありません。将来だけじゃないのです。死んだ後だけではないのです。今ここにイエスさまがおられるなら、そこに王の王であるイエスさまがおられるなら、そこが神の国なんです。そこが天の国なんです。
神さまが造られたこの世界、そして特にエデンの園において、神の国、「神が共におられること」は完全にあらわされていましたが、人の罪はそれを崩壊させてしまいます。創世記の三章ですね。その後の長い聖書の歴史は、神の国を回復させていく歴史でした。モーセ、ダビデ、みな神の国のひな型を建て上げるために用いられました。そしてイエスさまが来られて、その宣教の第一声は「神の国が近づいた」でした。このニュアンスは「ここにある、すでに到着した」ということで、つまり「今や神の国が到来した」という意味なんです。今や、神の国が到来した。イエスさまの臨在があるところ、そこが神の国ですから、イエスさまが来られたならそこが神の国なんです。イエスさまはその宣教の第一声で神の国について言われ、その教えはもっぱら神の国についてでした。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」であったり、「御国が来ますように」、つまりさらに広がりますようにと祈るように言われたり。語られたたとえ話のほとんどは神の国についてのものでした。死からよみがえられたイエスさまが天に戻られるまでの四十日間に何を語られたかと言えば、それは「神の国について」でした。イエスさまの教えの中心は神の国だったのです。
そもそも、聖書全体が「神の国」というテーマで貫かれています。先ほどエデンの園のことに触れましたが、人の罪で崩れてしまった神の国が、その後の聖書の歴史の中で回復が進められ、とうとうイエスさまが神の国を宣言され、そして聖霊に満たされた弟子たちは神の国の福音を伝えていきました。今も神の国は広がり続けています。そして、やがて神の国は完成する。イエスさまが戻って来られた時に完成するわけですね。聖書は「神の国」というテーマで貫かれている。
ローマ14章17節にこういうみことばがあります。「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」食べ物に関する文脈なので「食べたり飲んだりすることではなく」とありますが、特に後半のところに注目したいんです。私たちは、神の国の人間です。イエスさまを信じて、救われて、私たちは神の国の民とされました。それがどういうことかというと、聖霊による義と平和と喜びを与えられたということなんですね。義というのは神さまとの正しい関係のこと。平和というのはイエスさまが与えてくださる平和・平安のこと。そして救われた喜び、赦された喜びです。神の国とは、これらを聖霊によって与えられるということです。これってつまり、救いのことですよね。神の国とは、救われて神と共に生きるようになることであり、そこには聖霊による義と平和と喜びがあるんだということです。救われて信仰をもって教会に集う、時としてそれが義務のように感じたり、また苦痛になってしまうことがあります。でも、神の国とは、救われるとは、神さまとの関係の中に安らぎと喜びを与えられることなんですね。神さまとの関係における安らぎと喜び。もし今それがないのなら、求めていきましょう。神さまにそのことを求めていきましょう。神さまは必ず与えてくださいます。
私たちは何のために「信仰」を持っているのでしょう。死んだ後に天国に行くためでしょうか。それも大切なことです。でも、そちらに意識を向けすぎて、今与えられている命、今与えられている生き方が「神の国の喜び」からは程遠いということがもしあるなら、それはもったいないことです。永遠のいのちというのは、死後に与えられるものではなくて、イエスさまを信じた今すでに与えられているものなんです。それを喜び楽しみ、味わっていきたいですよね。神の国は、天の御国は、死んだ後に「行く」ところではなくて、聖書の表現としては「御国【が】来る」なんです。主の祈りでも祈ります。「御国【が】来ますように。」御国【が】来るんですよ。神の国は、天の御国は、ある意味ではイエスさまによってすでに来ています。神の支配はこの地上に広がっています。どうか「ますます」広がりますように。神の国が、神さまの支配が、神さまの臨在が、ますますこの地上に広がりますようにという祈りです。神さまが造られたこの世界ですから、その意味では神さまの支配の届いていないところはありません。イエスさまを信じ、神さまの支配を受け入れる人々が各地に、あらゆる分野の中に起こされていきますように、そういう祈りですね。
そして、それは「私の内に」ますます神の国が広がりますようにという祈りでもあります。自分の内から神の国を締め出してしまうことがあるからです。救われて新しい人になったのに、古い自分の性質にこだわってそこに居座ってしまう自分がいます。でもそうじゃなくて、そんな古い自分は思い切って手放さないと。イエスさまの十字架の前に差し出していかないと。そうやって新しい人として生き直していく。それが悔い改めるということです。信仰歴の長さは関係ない。何度でもです。何度でも悔い改めるんです。まさに、天の御国が到来しているのだからこそ、悔い改めるのです。悔い改め続けるのです。イエスさまが宣教の第一声でおっしゃったようにです。
<すでにといまだ>
天の御国は、神の国は、イエスさまにあってすでに来ています。しかし同時に、やがて完成するという意味ではまだ来ていない。神の国の完成はイエスさまが戻ってこられた時なんです。王の王としてのイエスさまが再臨される時、それが神の国の完成の時です。確実に来ているし、始まっている。でも完成はしていない。キリスト教入門講座の「アルファ」ではこれを第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦にたとえていました。上陸が成功した時点で連合国の勝利は確実となった。しかし、実際の勝利のためには、まだ時間がかかったというわけです。「すでに来ている」、しかし「いまだ来ていない」ということで、いつもよく言うことですが、今は「すでにといまだの間」なのです。私たちは今、この「すでにといまだの間」にいます。これは苦しい期間です。確実であっても、それでも今この時点では現実に苦しいからです。私たちはあらゆる苦しみを経験します。孤独であったり、あらゆる種類の痛みや苦しみがあります。イエスさまを信じているのに何で?と思えるようなことが起こるからです。確かに私たちは、苦難のただ中にあります。しかし、それでも私たちは天を見上げることを諦めません。やがて、そこから主が戻ってこられるからです。やがて、神の国が完成するからです(黙示録21:1-5)。やがて、神の国が完成するその日まで、「御国を来らせ給え」と、御国の民として、共にこれを祈り続けていきましょう。
<悔い改める生き方>
そして、やがての神の国の完成を待ち望むからこそ、今は、悔い改めるということ、悔い改めてイエスさまをお迎えするということにおいて、丁寧でありたい。天の御国がすでにきた、イエスさまにあって神の国が到来したのだからこそ、悔い改めるということにおいて素早いものでありたい。そうでないと、神の国の喜びを味わいつくすことが出来ないからです。詩篇51篇12節「あなたの救いの喜びを私に戻し/仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。」不倫と殺人の罪を犯したダビデが、そのことを指摘された時の歌です。51篇1節〜4節「・・・」有名な個所です。ダビデは自分の罪を認め、それをきよめてくださるように、赦してくださるようにと神さまに懇願しています。そして12節に続くのです。「あなたの救いの喜びを私に戻し/仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。」救いの喜び、これは悔い改めなければ戻ることはありません。しかし、悔い改めるならば、救いの喜びが返ってくる。イエスさまは言われました、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」私たちは今日、このことばを心にしっかりと受け止めたいと思います。それこそが神の国を生きる生き方です。そうやってこの一週間もまた、歩んでいこうではありませんか。(詩篇51:12)
ーーー
ガリラヤで神の国の到来を宣言された主イエス・キリストの恵みと
私たちとの関係を築き直そうと、神の国のご計画を進めておられる父なる神の愛、
そして、悔い改めて神の国の喜びを得る生き方へと、私たちを導き続けてくださる聖霊の満たしと祝福が
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【2/16】
マタイの福音書4章8節〜11節
「神のことばで生きる【3】」
イエスさまが荒野でサタンの誘惑を受けた箇所を三回に分けて読んでいます。今日は三つ目の誘惑の部分です。
はじめに振り返りたいと思いますが、サタンの一つ目の誘惑は「あなたは神の子なのだから、この石をパンにしてみたらどうか。」というものでした。神の子としての力を、自分を満たすために使ったらどうか、ということです。これに対してイエスさまは申命記のみことばを引用して、「神のことばに従って生きること」こそが大事なのだと答えられました。神のことばとは、イエスさまにとっては十字架にかかるという父なる神の御心のことですね。四十日の断食の間にそのことを父なる神と語り合っていたはずなんです。イエスさまは十字架にかかる。それこそが父なる神の御心であり、ことばだった。そのためにこそ、イエスさまは奇跡をなさるわけです。実際、イエスさまの奇跡は律法学者たちを怒らせ、十字架への道筋となっていきました。神の子としての力、奇跡の力はそのためのもの。父なる神のことばに従うためのものなのでした。決して、自分を満たすためだとか、神のことばを差し置くために用いるものではない。私たちにも、与えられている賜物があります。神の子としての立場があります。それは何のためなのか、吟味しなければなりません。
二つ目の誘惑では、悪魔も聖書のことばを引用してきました。神のことばというのなら、神は助けてくださると聖書に書いてあるんだから、王として民衆に受け入れられるために、圧倒的な力を誇ったパフォーマンスをしてみろ、というわけです。しかし、イエスさまがどんな王として来られたのか、いつも思い返す必要があります。イエスさまは圧倒的な力を誇る王としてではなく、十字架にかかる王として来られました。民衆に受け入れられるために神を試してみろという誘惑でしたが、イエスさまはこれにも申命記のみことばをもって答えておられます。一箇所だけ切り取って都合よく引用するのではなく、聖書が全体としては何を語っているのか、全体像を理解しておくことの大切さを教えられました。これは私たちが聖書を読む時にも非常に大切な姿勢となります。
<三つ目の誘惑>
そして三番目の誘惑です。これは非常に高い山の上で行われました。どんなに高い山でも、そこから「この世のすべての国々とその栄華を見」ることはできませんので、これもイエスさまの心の内で、その内面で行われたものだったと思われます。サタンは、あなたは神の子なのだからと、うやうやしく近づいてきて、みことばも利用してそそのかしてきたわけですが、ここへきてもっと強気に、単刀直入に、「私を拝め!」と迫ってきます。誘惑ってどんどん激しくなってくるんですね。そうすればこの世の栄光をすべてあなたに差し上げよう、と。こうは言っても、サタンがこの世界のすべてのものを所有しているわけではありません。確かに悪魔は「この世を支配する者」とか「空中の権威をもつ支配者」と呼ばれます(ヨハネ12:31、エペソ2:2)。しかし、それすらも神さまの主権の下での話です。それはサタンもよくわかっているはずですので、「これを全部あなたにあげよう」ということには何の根拠もありません。それでも、サタンはさも本当のことのように、自信たっぷりに言ってくるわけですよね。
そもそも、イエスさまに世界の国々をお与えになるのは、つまりイエスさまをまことの王とされるのは父なる神さまであって、サタンではありません(詩篇2:8)。イエスさまは十字架にかかることで、父なる神から高く上げられ、全ての名にまさる名を与えられ(ピリピ2:9)、「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられ」ました(マタイ28:18)。サタンを拝んで簡単にそれらを手に入れたのではなく、十字架にかかるという神さまの御心をたどってこそ与えられたのです。サタンはそうさせまいとした。イエスさまの十字架を無しにしようと画策したわけです。
<主イエスの反応>
しかしイエスさまは言われます。「下がれ、サタン。」そしてこれまでと同様に、聖書のことばでサタンを退けるのでした。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」それは申命記6:13のみことばでした。礼拝するとは、その方に価値を置くことです。サタンを拝む、悪魔に価値を置くなどあり得ないことでした。サタンとは、神のことばを疑わせるものだからです。
悪魔は創世記3章の時から、神のことばを疑わせてきました。イエスさまに対してもそうです。神のことば、十字架にかかるという神の御心をなしにしようとしてくる。でもイエスさまは神のことばを選びました。あくまでも十字架にかかるためです。悪魔のことばではなく、神のことばを取る。父なる神の御心を取る。この方を礼拝する。十字架にかかるため。イエスさまの決意でした。
後にイエスさまが「わたしは十字架にかかる」と弟子たちに伝えた際、ペテロがイエスさまをいさめて「そんなことがあってはなりません」と言いましたが、その時イエスさまはペテロにこう言いました、「下げれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。」(マタイ16:23)ここは以前の翻訳では「あなたはわたしの邪魔をするものだ。」となっていましたが、それが「つまずかせるものだ。」と翻訳が改められました。つまずく可能性があったということです。イエスさまにとって、十字架にかからずに済むということは誘惑だったのです。ペテロのことばは、弟子としての純粋に心配してのものでしたが、その陰にサタンが潜んでいたのです。繰り返しますが、サタンはいかにもサタンという格好をしてやってくるわけではない。愛する弟子のことばの裏に潜んで、十字架をやめさせようとしてきたのです。
「わたしをつまずかせるものだ。」この表現にすごく教えられました。イエスさまは十字架にかかる使命に向けて脇目もふらずに進んでいったのではなく、誘惑と闘いながら、葛藤しながら、それでも神のことばを選び取っていかれたのです。子なる神なんだから、いとも簡単に神のことばに従い、抜いていったのかと言えば、そうじゃないんです。イエスさまも葛藤した。誘惑と闘った。つまずく可能性があった。それでも神への信頼を諦めないで、神のことばを選び取っていかれたんですよね。ゲツセマネの園では血のような汗を流しながら、十字架にかかるという使命を取り除けてくださるようにと祈られたわけですよね。そうやって葛藤しながらも、最後には「あなたの御心の通りになさってください」と受け取っていかれた。十字架って簡単なことじゃないです。私たちは何回も聞いて慣れっこになっていますが、イエスさまが十字架にかかるというのは、決して簡単な話じゃない。それでも、イエスさまはご自分から十字架に進んでいかれた。なぜか。あなたを愛しておられるからです。あの人のことを、愛しておられるからです。
私たちも、日々、神のことばをとるのか、サタンのことばをとるのか問われています。このイエスさまに倣って、神のことばに価値を置くんだということを、神さまのことばを選び取っていくんだということを、何度誘惑されても、その都度選び取っていきたいですね。
<大祭司イエス>
以上、荒野の三回の誘惑を見て来ましたが、どれも極端で大袈裟な気もします。しかし、私たちはこれらの誘惑と無関係ではないし、むしろ誘惑に負け続けていることを思います。だからこそ、イエスさまが十字架にかかられたのだということ。だからこそイエスさまはここで私たちに手本を示してくださったということ。少しずつ、ほんの少しずつでもイエスさまに似た者として歩んでいけるように、私たちは今日からまた歩みだしていくんだということを胸に刻みたいと思います。
ヘブル4:15〜16にこうあります。「15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」イエスさまもサタンの誘惑を経験されたので、私たちの弱さを分かっていてくださいます。私たちは誘惑に陥った時、イエスさまの姿を思い出したいのです。それは「クリスチャンたるもの、誘惑に打ち勝つべし」というお題目ではなくて、人として誘惑と戦われたイエスさまの生々しい姿を思い出したいのです。私たちは肉のアダム、最初のアダムに属するもの、属していたものですが、イエスさまは第二のアダム、最後のアダムとして誘惑に打ちったお方です。その方の側に私たちは移されているんだということを信じ直していきたいのです。それでも誘惑に負けて罪を犯すことはあるでしょう。誘惑は「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」などを通してやってくると第一ヨハネ2:16に書いてあります。確かにそうですね。私たちはそういうことで誘惑に負けてしまう。しかしなお、それでも私はイエスさまの側に属しているのだとそこで信じ直すのです。それが悔い改めです。誘惑に陥らないように、守られるように、またそこから新たに祈り直していけばいいのです。その弱い自分そのままの姿で、イエスさまの前に出るのです。ヘブル書にあったように、あわれみを受け、恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
<歩み続ける>
11節、悪魔はイエスを離れて行ったとあります。誘惑はいつまでもは続かない。誘惑のどつぼにはまってしまうと、罪を犯すことを計画し、そのことで頭がいっぱいになってしまうものです。しかし、誘惑はいつまでもは続かないということを覚えておきましょう。
とは言っても、誘惑は何度もやってくる。この後、サタンはまたイエスさまを誘惑します。例えば、さきほどのペテロの言葉の陰に隠れて。ですから、もうこれ以上誘惑はなくなったということではない。しかし、みことばを握り、神さまの計画の全体像に目を留めながら、歩み続けるしかないのです。聖霊なる神さまはその歩みに伴っていてくださいます。「聖化」ということばの意味は「神と共に歩み続ける」であることを、いつも思い返す必要があります。それは罪を犯さなくなることではありません。聖化とは神と共に歩み続けることです。聖霊なる神さまはその歩みに伴っていてくださる。
<助けてくださる神>
そして11節後半、「見よ、御使いたちが近づいてきて仕えた」。見よ、というのはマタイが読者に向けて注意を喚起しているわけです。ここはよく読みとるようにということです。「仕える」という言葉には食事の用意を整えるという意味があります。2節でイエスさまは空腹を覚えられ、サタンもそこに付け込んで誘惑してきたわけですが、イエスさまはまさに神の国とその義とを第一にされました。そうやって誘惑に打ち勝った時、神さまは天使を遣わしてイエスさまの必要を満たしてくださったということです(マタイ6:33)。神さまは私たちの必要もちゃんと見ていてくださいます。それがないということで誘惑に負けそうになった時も、神さまはこの必要を見ていてくださる、必ず何らかの形で神さまはこれを満たしてくださる、だからゆだねて、神の国とその義をまず第一としていく。他の何ものでもない、神のことばに価値を置いていく。それを選び取っていく。そう心に決めて、今週も歩んでいこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)
ーーー
私たちと同じように人として生きられ、神のことばで生きることの手本を見せてくださった主イエス・キリストの恵みと、
私たちの必要を知っていてくださる父なる神の愛、
そして、主イエスに似た者へとつくり変え続けてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。アーメン
ーーーーーーーーーーーーー
【2/9】
マタイの福音書4章5節〜7節
「神のことばで生きる【2】」
イエスさまが荒野でサタンの誘惑を受けた箇所を読んでいます。三つの誘惑を二回に分けて見ていく予定でしたが、三回にさせていただきます。今日は二つ目になります。
その前に、そもそものところを振り返りますが、父なる神さまご自身は誘惑をなさる方ではなく、悪魔が私たちを誘惑をしてきます。しかし、神さまはそのことを許しておられる。悪魔の試みを受けるために、聖霊が荒野に導いておられるわけです。私たちも同様です。神さまが誘惑してくるのではない。悪魔が誘惑してくるんです。ただ、神さまはそのことを許しておられる。それは、悪魔、サタンのことばではなく、神のことばを選んで生きることのレッスンなのです。イエスさまには本来そのようなレッスンは必要ないのですが、主は王の王として、私たちに生き方の手本を示された。そういう箇所ですね。私たちは悪魔の誘惑にさらされているものですが、このイエスさまの手本に倣い、神さまのことばをこそ頼りにし、それを選び取って生活していきたいものです。
サタンの一つ目の誘惑は「神の子としての力を、自分を満たすために使ったらどうか。」というものでした。これは悪いことへの誘いという誘惑ではないどころか、「あなたは神の子なのだから」というそのままその通りのことを根拠にしているので、やっかいな誘惑です。しかしイエスさまは、自分を満たすことよりも「神のことばに従って生きること」こそが大事なのだと、マナの出来事を振り返って、申命記のみことばでそれに答えられたのでした。「神のことばに従う」、それはイエスさまが十字架にかかるという父なる神の御思いに従って生きるという決意でもあったわけです。
<5節〜6節 二つ目の誘惑>
さて、二つ目の誘惑は聖なる都エルサレムの神殿の頂、つまり屋上で行われました。これは実際に神殿の屋上に連れていかれたということよりも、その場で、イエスさまの内面での霊的なドラマとして、あたかもそこにいるかのようなリアリティをもってサタンが迫ってきたということだと思われます。サタンはまたこう言いました。「あなたが神の子なら」これも前回同様、意味としては「あなたは神の子なのだから」です。「ここから飛び降りてみなさい。神のことばが大事だというのなら、聖書にはこう書いてある。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたを支えさせ、あなたの足が石に打ち当ることのないようにされる』と。さあ、だから飛び降りてみろ!神を試してみろ!神の子なんだろう!神に愛されているんだろう!」というわけでした。先にイエスさまが聖書のみことばを引用されたので、今度は悪魔も聖書のみことばを用いてきたのです。悪魔も聖書を用いるんです。
サタンが引いてきた聖書個所、これは詩篇91篇11節〜12節です。これは主が「あなたのすべての道で守ってくださる」という神さまへの信頼を歌っている箇所です。しかしサタンは「あなたのすべての道で」というところを削除して、都合の良いように引用しています。「あなたは神の子なのだから、勝手気ままに飛び降りても、足が打ち当らないように支えてくださるはず」ということでここを引用しているわけです。およそ、聖書が言っていることとはまったく関係がないことでした。
<文脈外?>
ここで少し考えてみたいのですが、私たちにも、聖書の文脈とは違う内容でみことばを受け取っているということはあるんですよね。今回の悪魔のように、意図的にみことばを切り取って利用するなんていうのは論外ですが、でも私たちにもみことばの意図・意味を勘違いしているということはあるわけです。だから、この二つ目の誘惑というのは馬鹿にはできないというか、他人事ではないんです。何が難しいかって、聖書って「かつて、あそこで」書かれたものなので、「今、ここで」これを読む私たちには、自分のことに重ねて読むということが必要で、まさにその時に文脈以外のことが起こってしまう。たとえば、「神さまはあなたのために将来と希望の計画を持っておられる」というみことばがあります(エレミヤ29:11)。これは文脈としてはイスラエルの民がバビロンから帰ることができるという約束です。直接的にはこれは21世紀を生きる私やあなたの話ではないわけです、文脈としては。しかし、「かつて、そこで」語られたこのみことばが、「今、ここで」私に語りかけてくるから聖書って不思議なんです。聖霊なる神が、聖書のことばを「今の私」に語りかけられ、そこから励ましを受けるということを、私たちはこれまで多く経験してきたわけですよね。聖書ってそういう書物です。だから、文脈を超えて聖書のみことばが私に響くのは、それで良いんです。むしろ、それしかないです。ただその時に、イエスさまが「〜とも書いてある。」と言われたように、聖書全体に照らし合わせるということが必要でしょう。先程のエレミヤのみことばで言えば、直接の文脈としては今を生きる私たちの将来や希望のことではないけれども、それでも、生ける神さまが、今を生きる私たち一人ひとりのためにも将来と希望を与える平安の計画を持っておられることは、聖書全体から言って間違いないことです。だから直接の文脈から外れていても、聖書全体から外れていなければ大丈夫です。
ただ、そんな風に言われると、自分には聖書を正しく読む自信などない・・・そう思われるかもしれません。でも、大丈夫です。天地の造り主なる神が、そのひとり子を私たちのために遣わされた。その方は私たちのために十字架にかかって死なれ、よみがえられた。今は聖霊なる神として私たちと共にいてくださるという枠組みがしっかりしているなら、よほどのことがないかぎり外れた読み方にはならないですし、聖書は個人で読む物であると同時に信仰共同体で読む物でもありますので、自分で聖書を読むのと同時に、教会で、礼拝で、聖書が語られ続けていますから、それを聞き続けていただきたいのです。そして、交わりの中で教えられたことを自分のことばで分かち合っていただきたいのです。インプット(吸収)するだけでなく、アウトプット(自分のことばで表現していく)ことで理解はぐんと深まりますし、お互いの気づきに耳を傾け合うと、自分では気づけなかったみことばの深みを知らされていきます。そのようにグループで聖書を分かち合っていく中で、私たちは聖書のみことばを自分勝手に利用するということから守られていきます。聖霊は豊かにそこに働いてくださいますから、そうやって聖書を読み続けていきたいのです。
<7節「主を試みてはならない」>
話を戻しますが、サタンの二つ目の誘惑というのは、神の子としての力や栄誉を誇示することの誘惑でした。聖なる都エルサレムは王の都です。ここから飛び降りて無傷だなどという超人的なパフォーマンスをすれば、民衆から熱狂的に受け入れられるわけです。しかし、イエスさまのエルサレム入城は力を誇示することなく、ロバの子に乗ってなされました(21:1-11)。超人的なパフォーマンス、自分を強く見せることなどイエスさまの在り方とは相容れない、正反対のものです。しかし読み飛ばせないことは、イエスさまにとってそれは誘惑だったのだということです。一つ目のものも、そして三つ目のものもそうですが、イエスさまはこれらの誘惑を軽くあしらえたのではなかったでしょう。誘惑だったのですから。人として来られたイエスさまは、その誘惑を人として受けられたわけです。だから、簡単なことじゃない。でも、イエスさまはそのすべてに聖書のみことばを思い出すことで対処されたんですよね。ここにイエスさまの手本があります。
二つ目の誘惑への答えはこうです。「あなたの神である主を試みてはならない、とも書いてある。」サタンのみことばの使い方は文脈を無視する自分勝手なものでしたが、イエスさまは聖書全体を踏まえた上で「こうも書いてある」と切り返されたわけです。先ほども言いましたが、聖書は全体で理解することが大切だということがよく分かります。イエスさまが引用されたのはまた申命記でした。イスラエルの民が荒野で神さまを試みたように、神を試みてはならないという個所です(申命記6:16、出17:1〜7)。イスラエルの民は荒野で水がなくなった時に、神さまの導きを信じることが出来なくなりました。自分の望む状況、自分が安全でいられる環境ではなくなった時に、神さまは水をくれるのか、くれないのか、そして「神さまは私たちと共におられるのか、おられないのか」と言って神さまを試したのです。サタンの誘惑も、王としての自分の栄誉を誇示するためにここから飛び降りたとして、神さまは助けてくれるのか、くれないのかと神さまを試すことでした。それは自分が望む状況に神さまはしてくれるのか、くれないのかということです。水があって自分は守られるということだったり、あるいは王としての権威を誇示できるということだったり、自分が望む状況にしてくれるのか、どうなのかと、こちらの都合や願望を神さまに押し付けることですね。
一つ、覚えておきたいことは、試みてはならないというのは、疑ってはならないということではありません。神さまが望んでおられるのはロボットのような応答ではなくて、血の通った人格的な関係ですから、疑う心があってもいいんです。そこからまた信じていけるから。信仰とは私の側がまったく疑わないということよりも、神さまが私たちを選んでくださり、信頼してくださっているということこそが大事なんです。私たちの側にはまったく疑わないぶれない信仰なんてないですから、もともと。大事なことは、私たちがぶれない鋼の信仰を持つかどうかではなくて、神さまが私たちをまったくぶれずに信じてくださっている、信頼してくださっているということです。
士師記に記されている、ギデオンの話を思い出します(士師記6:36-40)。ギデオンは、神さまが自分を用いてイスラエルの民を救うということが信じられなくて、神さまを試しました。乾いた地面に置いておいた羊の毛皮だけが濡れていたらと言って、その通りになったのです。次の日彼はもう一度試します。羊の皮だけが乾いていて地面は濡れていたら信じますと言って、神さまを試しているんです。しかし、神さまはそのことを咎めず、その通りにしてギデオンを励まし、ご自身が共におられてギデオンによって民を救うことを明らかにしてくださいました。あの時、ギデオンは神さまを試したんです。それでも神さまは、ギデオンを大きく用いられた。大切なことは、神さまと血の通った人格的な関係を持つこと。神さまとことばのやりとりをすることです。祈りの中でこちらから申し上げ、また神さまからの語りかけを聴いていくこと。その中で、神さまに対して疑う心だったり、文句を言うことだってあるでしょう。でも、それでも神さまと共に歩むことを止めない。それが大事なんです。疑ったか、疑わないかという「点」の話ではなくて、そういったことがあっても神さまとともに歩み続けるんです。ギデオンはそうだった。ギデオンは神さまを試したけれども、そこがどうだったかと言うよりは、それによって彼は励まされ、確信を得て神さまに大きく用いられていった、その「流れ」が大事です。神さまと共に歩むことをあきらめない。聖霊なる神が私たちをそのように導いてくださるから大丈夫です。
「試みてはならない」というのは、神さまの御心に関係のない自分の都合、こちらの願望を押しつけて、これをかなえてくれのか、くれないのかと試してはならないということです。無意識的にでも神さまにしてしまっていることだと思いますので、イエスさまの手本に倣いたい。イエスさまのこのことばをいつも思い出していたいと思います。仮に疑う心、試す心が出て来たとしてもです、それをそのまま神さまにぶつけていきながら。疑う心が出たからもうだめだと、そこで切ってしまうのではなくて、それらは神さまにぶつけていきながら、とにかく神さまと共に歩んでいきたいですね。
そのようにしてイエスさまは、十字架にかかる王、人々の前で無傷で飛び降りる王ではない、十字架にかかる王としての道を歩まれました。私たちも自分自身に任されている神さまの御心に従っていきたい。イエスさまの手本に倣い、聖書の一部分だけではなく全体からみことばを理解し、受け取り、神さまの御心に従っていきたい。そのためにも聖書のみことばを心に蓄えましょう。かつて、そこで聖書を記させた聖霊なる神は、今ここで聖書を読む私たちにもそのみことばを豊かに語りかけ、神さまの御心に従わせてくださいます。昔書かれた聖書のみことばですが、聖霊が私たちに豊かに語りかけ続けてくださる。ダビデは「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)と歌いましたが、かつてそこで記されたこの賛美は、神のみことばとして、時を超えてキリストのからだに属するすべての人に共有されています。みな、このみことばに心からアーメンと言い、自分を重ねているんです。聖霊はそうやって私たち一人一人に語りかけていてくださる。だから、安心して、そしてもっと貪欲に、聖書のみことばを吸収していこうではありませんか。
「神のことばで生きる」と題して、三回のシリーズになりましたけれども、イエスさまの示された手本に倣い続けていきたいと思います。次回は、三つ目の誘惑について見ていきます。(詩篇119:105)
ーーー
私たちのために、神のことばで生きることの手本を見せてくださった主イエス・キリストの恵みと、
疑う心、試みる心を持つ私たちを絶対にあきらめない父なる神の愛、
そして、聖書のことばを私たちのこととして豊かに語りかけてくださる聖霊の満たしと励ましが、
今週もお一人お一人の上に、その周りに、
豊かにありますように。
アーメン
ーーーーーーーーーーーーー